眩暈がするわ。あまりにも世界は、あまりにも



9.世界



考えるだに眩暈がするわ。頭の中がかっと熱くなって、それから首が定まらないように視界がぐらぐら揺れる。
サク、信じられる? 世界にはたった100円で、病気の子のための特別な食事1日分が作られるんですって。それは
栄養価が高いんだって。
「うん」
あなたは頷き、私の興奮にも囚われることなく 穏やかに微笑んで先を促してくれる。
50円は、伝染病の予防ワクチン2本分、栄養食4回分に相当するんだって。300円で、カンボジアでは子どもが
1ヶ月学校で学ぶことが出来るんだって。
「そうか」
1ヶ月。たったの、300円で。私はそれがこの世の話ではないように聞こえてならない。教育は人間の可能性を広げる
手段の一つだから、誰だってそれを受ける権利を持っていると思うし、それがお金によって叶わないのはとても切ない
気持ちになる。
「お金のために苦しむ人がいるのは切ないわ」
「そうやね」
「そのお金がちっぽけなものなら尚更、切ないわ」
「うん」
「300円なら昨日あっという間に食べてしまったわ。おにぎりとサラダを昼食に買った」
「うん」
「50円なんて、いまどき何にも買えない。缶ジュースだって、100円じゃ自販機には売ってない」
「うん」
「そこで一言『100円で買える自販機もあるで』とツッコんで欲しかったな」
「あはは」
サクは静かに笑う。私は静かに顔を歪める。私は何をこんなに動揺しているのだろう。この事を習ったのは今日の授業で、
知らなかった昨日までの月日にも、数百円で生活が一変する人々がこの地球の裏側に 変わらず生きていたというのに。
私が何を知ろうと知るまいと、そこにその人たちは貧しく暮らし、飢えに耐え、病に苦しみながら、それでも確かに存在して
いるという事実が、私には地球の誕生並みに衝撃的だった。なぜ、同じ人間なのにこうも取り巻く世界が違うのか。
喫茶店の窓越しには、冬の午後の日差しが表通りを明るく照らし、道を行き交う人もまた、はしゃいでいたり疲れた顔で
急ぎ足に過ぎて行ったりしている。飢えも病も学校に行けない苦しみも、裸の木々の枝先についている冬芽に 全部
隠されている。詰まっている、ぎっちりと、だけど跡形もなく。
「不平等は辛い。ねえサク、でもそれも地球や宇宙から比べれば小さなことよね」
「まあ、そういう考え方もあるな」
地球は太陽から適度に離れていて、大気を安定して保持できるだけの大きさがあるから水を維持できた。金星は太陽に
近すぎるために 水は水蒸気の状態のまま、二酸化炭素も大気に残ったままだから気温は非常に高温になってしまった。
火星は地球の半分程度の大きさなので重力が小さく、大気を引き留めておくことができない、だから気温は低いままとなる。
偶然の産物が水を生み、生命を生み、人を生んだ。そんな地球も、宇宙の単位から見れば砂粒みたいな存在だ。粒の上で
私たち人間は、更に 安穏と暮らす人たちと、その日一日の食料にも事を欠く人たちに分かれる。なんてこと。
ひたりと暖かそうなぽわぽわのファーの襟巻きをした女の子が足早に歩道を渡っていくのを見ながら、虚ろに私は呟く。
「小さな出来事に過ぎないのなら、みんな平等に幸せと不幸を分かち合えればいいと思うわ」
「うん」
地球が誕生してから今日までを一年とすると、類人猿の分岐が12月31日23時59分58秒。文明の成立が12月31日
23時59分59秒。 どこで道は別れたの。それは運で決まるものなの。そんな無情なことってあっていいの。思う側から
そんなことを考えても埒が明かないよと囁くもう一人の冷静な私がいる。確かにどうかしているのかもしれない。最近、
私は本当に色々なことに少しずつ傷付いている気がする。ぐるぐると、私にはどうしようもない事をニュースで見たり
人から聞いたり、そしてその度に安っぽい感傷が私を襲うのだ。高みの見物みたいで失礼だと思いながらも、私は
絶えず落ち着かないような、どこか後ろめたいような気分になって、最後には堪えきれずに泣く。子供が母親に
殺されたと聞いては泣く。どこぞの犬が、苛める飼い主に未だ尻尾を振って擦り寄ると聞いては泣く。中学生の間で
リストカットが流行していると聞いては泣く。泣く、泣く、 泣く。泣いたってどうしようもないのに。馬鹿だな、私。
思い出してまた勝手に潤み始めた目を誤魔化すように私がそう話すと、目の前に座る男はコーヒーカップから指を離し、
そのまま私の頬に触れてくる。
「感じやすい性格なだけや」
「そう?」
「わたしはチルのそういうとこ、好きやよ」
「そ、そう…?」
言いながらも尚、彼はいつも通りの口調で優しさだけを与えてくれる。店内の視線が多少は気になったものの、今はもう少し
自分を正当化したくて、またサクに甘えてしまう。彼の細い指に自分のそれを絡めながら、私は再度言葉を求めた。
「サク、私のこと好き?」
「好きやよ」
「サクは私を大事にしてくれるものね」
「好きだからな」
―― ああ、これが世界だ。他国では50円のワクチンに、100円の食事に、300円の教育に焦がれている人間が数多いると
いうのに、私は一人の男との甘い夢だけに溺れている。目と目を合わせるだけで現世の憂いを振り払い、この腕に有り余る
幸福を一心に受け入れる人でなしにも 容易く変わることが出来る。それも世界の一面だ。
これが世界の一面だ。
「好きや、チル」
そう、だから私はたとえここが地獄でも 平然と笑っていられる。私の世界はあまりにも小さすぎるから。だけど、これも
紛れもなく、一つの『世界』なのだった。

05/1/29
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