だってきっと、星は見えない。 だってきっと、君は見えない。 この身はとうに、この空から落ちてしまったから。 この空を汚してしまったから。 光に触れる、資格などない。 だからただ、願ってた。 君は、君達だけは、あの空で星のように輝いていてくれたらいいと。 他に願うことなど何もなかった。 星にもまた願いや祈りがあるのだということさえ、わかろうとせず。 ただ、祈ってた。 |
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「あらかじめ失われた痛み」・30
-Act,30- |
その時、音も無く、雲が晴れた。 夜空を覆う雲が風に流れ去り、欠けるところのない満月が、ただ静かに光を降り注いだ。 窓ガラスもはまっていない、粗末な家の窓辺から、彼女はそれを見る。 静かな、気持ちで。 (ああ、時が、来たのだ) やっと、この時が来たのだ。全てが動き出す時。始まりの日が。 (おかしい) 本当ならとうの昔、何百年の昔に、自分は、自分達は、始めることができていたはずなのに。 破壊でも改革でも、ただの逃避でも、どんなことでも。 できたはずなのに。 (わたし達は、やろうとしなかっただけね) (・・・・罪は、等しく) 一度だけ、目を閉じる。 遠い日の罪を思い起こすように。 そして彼女は立ち上がる。 全てを終わらせるために。あるいは、始まらせるために――――きっと、そのどちらでもあるのだろう。 一つの終わりが、一つの始まりのためには、切実に必要とされるのだ。 そこに善も悪もない。 (それが、怖いのは当前の、こと) 上着も着ず、夜着のまま彼女は歩を踏み出す。 暗闇の中、滲むようにその身を淡く光が覆い始める。 全ての虚飾を剥ぎ取る、時が来たのだ。 本来の姿へと、戻る、時が。 (けれどあなたは、逃げてはならない) (あなたを愛するもののために) (あなたの愛するもののために) (逃げることは、してはならない) 真っ直ぐに、見上げた空に、誰かの目に似た満月。 (――――これ以上、過去を繰り返しても、誰も救われない・・・) 自嘲と、決断とを込めて、胸中に呟いた言葉が、次の歩を踏み出す力となる。 そんな簡単なことを、遠い日、できなかった。 できなかった自分達が、いた。 いた、ことを。 背負って、その姿は、暗闇の中へ消えていく。 静かな夜だった。とても静かな夜だった。 何かが崩れていく夜とはみな、こんなふうに静かなものなのかもしれないと。 そう思わせるような夜だった。 引かれた扉も、無人の簡素な寝台も、もはや彼の心臓の在り処を傷ませる原因になりはしない。 眼前に曝される全ての現実は、もう何年も前から、知っていたものにすぎなかったから。 こつん、と彼はドアに軽く頭をもたれかけさせる。前髪が少し、視界を狭くした。 何も今更痛みはしない。 やっぱり、とさえ、思いはしない。 ただ、この目に写すだけだ。 いつかこんなふうになると思っていた。 笑いながら笑いながら笑いながら(泣き方なんて知っていたくせに)、 お前は少しずつ鑢で削り取られていくようにぼろぼろになっていって。 消えていくんだろうと。 空気のように。 誰にも知らせず、何も言わず、自分ひとり、その時が来たと勝手に思ったたら、黙ったまま、消えていくんだろうと。 そう、海の泡になった人魚のように。 空気になって消えていく、御伽噺のように。 冷えた笑みが口の端に浮かぶ。愚かだ、なんてそんな思い飽きたことを、今また言って何になる。 ただ、こうして選んだ結果を見るだけだ。お前が、選ぶように、己もまた選ぶだけだ。 だから三蔵は何も言おうとは思わない。述懐も、罵りの言葉も、人を呼び捜索を促す言葉も。 何も今この瞬間に必要ではない。 それでは、意味がない。 自分が、自分達が、そうするのでは、なんの意味もない。 「・・・・よう、いい月夜じゃないか」 だから、その声を聴いた時も心は静かだった。 ただ淡々と、一瞬前までは確かにそこにいなかったものが、主を失って乱された寝台の向こう、開かれた窓枠の上に、当然のように腰を下ろしてこちらを見上げてくるのを、黙って、受け止めただけだった。 それは静かな夜だった。 傷の治りもはかばかしくなく、安静にしていなければならないはずの小さな姿はあるべき場所になく、それを既に知っていた静かさで、青年は扉を開く。 そうして神は、全てを見る。 神とは、そういうものだということを、よく知っていたから。 世界中にある創世神話が生まれた理由を、神はよく知っている。 世界の全てを生み出した神。それは、つまり、世界の全てがあらかじめわかっているものだということ。 箱庭の中の動植物を見るように、その未来さえ、定められた道筋に乗って進んでいくのだということ。 神は全てを知り、見通し、人を導く。 それが当然。 真に神が全てを創世し、全てを見晴るかすというのならば、人はただ、神についていくだけでいい。 道は、既に決まっているのだから。 そう思えば、諦めるのは容易い。 無邪気に希望を求めるには、現実は優しくはないから。 創世神話とは、つまり、人が世界の成り立ちを説明して自ら納得するために、そして、諦めや希望を持ちやすいように、工夫して編み出された、人による、人のための、優しい御伽噺だ。 (そんなものは、いはしない) そんな、”カミサマ”なんて、いはしない。 全てを見届ける、というお題目は。 世界が最初から、この手を離れているからに他ならない。 (たとえ世界を創世したとして、その後の世界に干渉する、なんの権利があろうか) 根拠も無い優越を妄信することはできない。現実に、神がこの現状に何をしたと言うのか。 一人の人間と、三人の妖怪に、世界の命運を預けただけ。 闘神不在の現状とは言え、天界軍自体がなくなったわけではないのに。 軍に、闘神に、権力を集めることを忌避し、弱体化を図ってきたこの数百年が、生んだ結果だ。 (神など、無力なものにすぎない) 強すぎる力を自ら封じたなどと、綺麗言を吐きながら、ただ、その力を振るった後の責任を取るのが怖いだけ。 (勝気で、傲慢で、脆い、子どものようだ・・・・) そして神は微笑む。自らが、そんなものだと、知りながら。 愛おしくさえ思っている、足掻き、傷つき、生きているものへと。 「随分と不機嫌じゃないか、玄奘三蔵。せっかくの名月の夜に、神仏との会合の機を得ながら」 「・・・・高みの見物には、もう飽きたか、観世音菩薩」 三蔵はそれ以上歩み寄ろうとも、去ろうともしない。 そんな必要はない。 そこにいるものと、己とに、どれほどの差もありはしない。 今ここにはいない、大地から生み出された者も。 何も変わらない。 「さぞかしいい娯楽になったろう?俺達の足掻く様は」 「否定はしないさ。何一つ動きのない天界で、下らぬ遊戯に興じるよりは、な」 「結構なことだ」 「お前達は、生きているからな」 互いの腹を探り合うようでありながら、投げやりな会話。 三蔵の関心は、今この場にはないからだ。 それを正しく知るからこそ、観世音菩薩は笑まずにはいられない。 慈愛のように。 「玄奘三蔵。お前は何故そこにいる?」 「・・・・」 「何故、あれを追いかけない?」 「・・・・」 三蔵は、静かに神を見返した。本当に、静かに、穏やかだと言える、ほどに。 むしろ彼のその表情こそが慈悲というものであったのかもしれない――――無関心というものが、一種慈悲と通じるのであれば。 「それで、何になる」 静かな声だった。穏やかな声だった。 「追って、捕まえて、引きずり戻して。・・・・何になる」 それでいて、真っ白い焔が立ち昇るような、声だった。 絶望という字の中にすら、望み、は、あるのだ。 そんなふうに、神は思った。 「だがそれが、お前がしてきたことだろう」 そんな想念をめぐらせながら、静かに神が返答する。 「八年の間、繰り返してきた、ことだろう。あのチビのために」 「・・・・誰の、ためだって?」 三蔵は、笑った。もしかしたら、ひどく優しく。 「知っているさ。見てきたからな」 「・・・・」 「八年、か。我々にすれば、あまりにも短い時間だ。欠伸を噛み殺している間に流れ去る」 「・・・・」 「だが、長かったよ。・・・・長いなと、思ったのは、随分と久しいことだった」 追憶のような言葉を、己とは関わりない異国のことのように、三蔵は聞いていた。その認識は正しくもあり、誤りでもあった。 「どれだけの血が流されたんだろうな?」 独白のように。 「お前も、あのガキも――――お前らは皆して、どれだけの血を流し、痛みを味わってきたんだろうな?」 「・・・・それがお前に、何の関係がある」 「ある、と言えばあるんだよ。お前達は知らなくていい」 「勝手に言ってくれる・・・」 「それが神というものだろう。知らないはずはあるまい?」 意味もない、禅問答のように。 あるいは――――遠い遠い昔から、あらかじめ決められてきた劇の台本を読むように。 奇妙に実感のない、それなのに、とても重要な一場面のような。 それなのに何の意味もないような。 奇妙な時間。 「お前はその痛みを、意味のないものだったと思うか?」 柔らかな笑みを唇に浮かべたままに、神は問う。答えを求めているのか、いないのか、定かではなく。 「思いはしないだろうな。意味など、求めてはいないのだから」 そして神は断言をする。知っていたことのように。 そう、それだけの確信を得るほどには、見てきた。 彼を、彼ら、を。 それは、五百年前の誰かに重ねていたのかもしれないし、まったく異なる物語を紐解くようであったかもしれない。 どちらでもあるのだろう、きっと。 過去は過去であり、今とは違う。 けれど、切り捨てることなどできるはずもなく。 「お前は強い奴だよ、玄奘三蔵」 三蔵は目を伏せる。どうでもいい、と言いたげに。 「強く、そして厳しい奴だ。意味も、理由も問わず、八年間耐えてきた」 「・・・・」 「お前はそういう奴だ。己にも、己の認めた他者にも、誠実にあろうとする」 「・・・・」 「だが、な・・・・それは、あのガキも変わりはしないんだよ」 神は微笑む。優しく―――たぶん、本当に優しく。 「あれもまた、誠実ではあるんだよ」 「・・・・己を犠牲にしてまでも?」 かつて神として生まれ、人の子として再び生れ落ちた存在もまた、笑う。 どうしようもないように。 「そんなのは、ただの自虐だ」 「ああ、そうだろうな――――だがな、あいつだって、望んだわけじゃない」 「・・・・」 「俺は、お前の知らないことを知っている。あいつをして、そうさせる、あいつの過去について」 「・・・・」 「古い、昔話だ」 神の眼差しは遠くを見る。もはや失くしたものを懐かしむ――――そういう、眼差しだったのかもしれない。 「あいつは、罪を犯した。故に罰された」 「・・・・」 「あいつの記憶を封印したのは、俺達神だ。それも罰の一つだったのさ。あいつの犯した、大罪への」 「・・・・」 「血を流すほどに大事だった、今はもう辛いだけかもしれない、だけど特別で真実だった、記憶を・・・・剥奪されることも、下された罰だった」 黙ったまま、肯定ではなく、否定でもなく、どこまでも遠い無関係なものを見る目で、そこに留まる者を、神は見返す。 何も知らずに何百年をただ生き、たった一つの存在によって本当に生きることを始めたものが、いつか、いたこと。 それを、もう、覚えているものは多くはないだろう。 それは忘れ去られるべき記憶だった。 忌まわしい出来事だった。 けれど懐かしく、神はそれを思い起こすのだ。意味などなく、血塗れの無残な終わりを迎えた、けれど輝くようだった、彼らの生き方を。 「・・・・なぁ、玄奘三蔵」 神の笑みは深まり、そしてかすかに歪む。 「そうしなかったなら、あいつは生きてはいなかったと思うだろう?」 ――――悲哀、のように。 「・・・・何を言っているのかわからねぇな」 「いいや、わかるはずだ。お前だけは、わかっているはずだ」 歪んだ笑みのまま、また、神は断言する。 それが真実なのだと知ってしまっていたから。 「でなければ、何故、神岩から生まれた大地の子を、岩牢に封印するなんてことが起こり得る?」 「・・・・」 「知っていたはずだ、お前は。お前だけは不思議に思ったはずだ。何故、五百年を封印されるほどの罪を負ったあのガキが、あのガキを護るものでしかない岩牢なんざに封じられたのかを」 「・・・・」 「何故ならお前は、この世で一番に、あいつを案じるものだからだ。あいつ自身よりもなお、あいつについて考えているものだからだ」 「・・・・」 ただ静かだった眼差しが、刹那、歪んだ。 ぐっ、と握り締められる拳を、神は見る。 固い皮膚を持つ、銃を撃つ、掌だ。かつての男の掌とは、あまりにも違う、戦い、血に濡れて、そして生きることを日常としてきた掌だ。 決して、同じでは、ない。 「結論は、一つしかない――――それは、あいつを護るための罰だったということだ・・・・何もかもが」 その程度には、あの生き物を、愛しく思っていたのだと。 そう、神は思う。 鮮烈な赤に塗れて――――壊れ果てた眼差しで、ただ、見返してきた小さな、小さな子ども。 その目はもう、終わりしか、見据えてはいなかった。 この腐った天界で、誰よりも生きることを知っていた存在が――――たった、四つの死のために、そうして、壊れるのだということ。 それはあまりにも不条理で、そして、ありふれた事実でしかなかっただろう。 けれど、あまりに、哀れであると感じた。悲しいと、感じた。 それを感じたのが、肉親としての情なのか、神としての慈愛であるのかなど、区別をつける意味を見出せない。 だから、天界の無殺生という理を最大限に利用して、全てを自分が画策したのだ――――反発する天の力よりも、同系列にある下界の力を使ってあの莫大な力を押さえつけるべきだ、と。 もう一人の壊れた者――――もはや使い物にならない闘神を引き取ったことも。 それは単純なエゴでしかなかったのだろう。 未練、のような。 あの牢獄の中の、五百年の時間――――それすらも、守られるためのものでしかなかったと知れば、今度こそ、あの幼子は絶望するのだろうか。 「ああ・・・・そうだろうな」 暗い、海の底にいるような静かな心持ちで、三蔵は独白する。 おかしいとは、思っていた。確かに。 あれだけの封印が、あんなにもあっさりと解けたこと。 冷たく暗い世界の片隅――――けれどそれは、同時に、誰の手も及ばない場であるということ。 時の流れの止まった場所――――生もなく、それは、死さえないということ。 死のうとしたことなら何度もある、と。いつか悟空は呟いた。 けれどあの場所に時はなく、傷はすぐに癒えてしまうのだと。どんなに首を絞めても、苦しいだけで、何も終わらず、始まらなかったと。 『でも、それでよかったと思う』 透明な、あまりにも真摯な眼差しで悟空は三蔵を見て、そうして笑ったのだ。 『だって、だから、三蔵に会えたんだもんな』 絶望的なまでに、儚く笑って・・・・紡がれた、言葉。 そう、三蔵は知っている。よく知っている。 今悟空が生きている理由。彼を生き続けさせている、ほとんど唯一の理由について。 吐き気がするほどに、知っている。 「そういうことだ――――あいつは結局のところ、何も、変わっちゃいない」 あの日崩れ去った牢獄は。 悟空が、新たな生きるための枷を得てしまった、から。 だからこそ、封印を解いたのだ。そう、大地の意思に従って。 あるいは、悟空自身の諦観によって――――? 「五百年、前から・・・・・変わってないってことだ――・・・・今も」 「・・・・」 「過去に捉われたまま、何一つ、変わっちゃいない・・・」 「・・・・」 歪んだ笑みは、自嘲か――――変えることができなかった、己自身に対しての。 目を細めて神はそれを見る。 遠い真っ赤な日、何もかもを終わりにすることだけを、もう何も繰り返さずに消え去ることを、願った、子ども。 冷たく暗い牢獄さえ――――大地に属するもの。 全力で、子どもを守るための檻だった。 ただ、終わりたがっていた子どもを生かすには、思い出などでは駄目だった。 彼自身の意思でも、足りない。 外側からの力が、絶対的に必要だったのだということ。 それが――――真実。 そしてその真実に、こんなにも苦く笑う者がいるのだということを。 いつまで彼は知らずにいくだろう。 それは、はたして罪と呼ばれうるものだろうか。 そうだとしても、きっと変わらない。 この現実は、きっと、変わらなかった。 彼が望み、そして目の前の男が望んだ、その、結果――――。 「・・・・何が間違っていたんだろうな」 「・・・・」 「記憶を封じ、守られる場所を与え――――それでもなお、癒せないほどの、絶望だったと思えばいいのか。それだけの、思いだったと」 彼は答えない。 答えなど、必要としていないから。 「ああ、きっと、そうなんだろうな――――ずっと昔のあいつは、何も知らず、それでも、幸福そうだったよ。小さな世界の中で、心から――――笑っていたよ。自ら、自分を滅ぼさなければならないほどに、幸せだったから―――幸せだったほど、記憶はあいつを痛めつるものにしかならない」 だから神は遠くを見るように続けた。独語のように、それでいて、確かな波紋を投げかける、言葉。 「全て封じたはずだったんだがな。―――いや、理、だな。記憶をなくしても、感情が消えるわけじゃない。心に刻み付けられた恐怖や傷跡は・・・・消えるもんじゃねぇからな」 「・・・・」 「お前の言うのも間違いじゃないさ。あいつは過去に囚われている。憶えていないからこそ、囚われずにいられない。何もかも奪われたからこそ・・・・あいつはいつまでも、空白の過去を捨てられないんだ」 「・・・・」 「・・・・だが、わかってやれ。そのことに一番傷ついているのはあいつ自身なんだ。それはあいつにも、どうにもならねぇことなんだよ」 月の光が眩しく、そこに在る者達を照らしていた。 不思議なぐらいに穏やかな、目を、男はする。 それはかつて神の知っていた者の眼差しと酷似していた。 優しい目だ。穏やかな目だ。この世のどんなものよりも優しい、優しい感情によって生み出される眼差しだ。 それなのに、何故、こうも別物だと感じるのだろうか。 穏やかな慈しみが、確かにそこにはあるのに。 全てを包み込みたいような眼差しと、突き放したいような眼差しと、真逆のようにこの目に写るのだろうか。 「それがどうした?」 薄く笑みさえ浮かべて、本当に無意味なことのように、男が言う。 それはどれだけの感情を乗り越えた末に吐かれる言葉なのだろう。 「俺には関係ない。あいつがいつまでも過去にしがみつこうと、俺がいつまでもあいつに現在を見せたかろうと、そんなのはどうだっていいことだ。過去も未来も関係ない。これはただの、俺のエゴで、あいつのエゴだ」 「・・・・」 「因縁なんてどうだっていい。何も関係ない。・・・・俺はただ、諦めきれないでいるだけだ。たったそれだけだ」 淡々と紡がれる声を神は聴き、静かに見据えてくる眼差しを受け止めた。 美しい男だった。 激しい男だった。 「奇跡も神も要らねぇよ。お前達にできることなど何もない」 「・・・・」 「あいつが・・・・決めなきゃ意味がない」 それは、諦観のようにも響いた。同時に、深い信頼のようでもあり、たぶんそのどちらでもなかった。もうそんなものは飛び越えてしまっていた。 それほどに、深い、感情。 「戻ろうが、進もうが、何もかも――・・・・あいつが決めなきゃ、もう、何の意味もない・・・・」 人は何故、そうも激しく人を想うのだろう。 神として生まれ、神として生きることを選んだ者は、ひっそりと思う。 眩しいまでの、激しさ。 その身を焼き、心を焼く、激しさ。 運命など焼き払って進むというのか。それを傲慢だと、言えるのか。 そんな激情を知らない神という存在に。 少なくとも、今ここにいる神には言えなかった。ただ――――ただ、ひどく哀しみに近いような、静かな気持ちで囁いた。 「・・・お前はあいつを、愛しているのに?」 深い、深い暗闇に初光が差し込める頃の空の色。 光と闇を内包する双眸が、当然に神を直視し――――そして笑った。 「たとえ、そう呼ばれるものだとしても、俺一人で決めるものじゃない」 「あいつもまた、選ばなけりゃ、ならないんだ」 もう、全ては壊れ始めているのだから――――。 夜露に濡れた草を踏みしめていく。冷たさも感じない。 歩く先など知らなかった。ただ歩いた。縺れる足を叱咤しながら、走れない自分を呪いながら、ただ、ただ、ひたすらに。 離れなければならない。叶う限り、遠ざからねばならない。 ただそれだけの思いに突き動かされていた。 盲目な恐怖だった。 萎えた足にはさして深くはない山道さえ容易くはなく、至る所から突き出る木の根に足を取られて何度も転んだ。いつしか雲は晴れていて、満月の光が全てを照らし出していたけれど、森の中にはそれもまた届かない。暗闇の中を、転び、時に這うように、泥まみれになって、悟空は進む。己の歩く先、その一歩後から世界が崩れていくような必死さで。 呼吸はとうに乱れて、喉の奥が焼け付くようだった。血の味がするのが現実か、錯覚か、わからない。 ただただ、歩く。 恐ろしいものが後ろから追いかけてくる。それは真っ黒な暗闇ではないのだ。いつだって、恐怖とは本当はそんな形をしていない。それは鮮やかな光だ。光り輝く暖かな何かだ。本当の恐怖とはそんなもので、そして全てを飲み込んでいく。塗りつぶしていく。こんな卑小な穢れた身さえ、真っ白に。 (行かな、ければ) 行かなければ、ならない。 逃れて。 行かなければならない。 もう駄目だ。怯えているだけでは駄目なのだ。怯えながら、疲れ果てて、終わりを待つことさえ、自分には許されていなかった。そういうことだった。 もっと、自分から。積極的に、終わりに向けて動き出さなければいけなかった。本当は、もっとずっと前から、そうしなければいけなかったのだ。 ずるずると留まり続けていた、これが、結果だ。 どこまでも自分は愚かだ。愚かで弱かった。 (また、繰り返す、気だったのか) 想像もつかない恐怖を。 自らのために全てが失われていく、未知であり、既知である恐怖を。 あんまりにも愚かだ。 わかっていたくせに。ずっとわかっていたくせに。それなのに夢を見ていたかったのか。 彼らが死ぬまで、なんて。 そんな時間さえ許されるはずもなかったのに。 また、何かを歪めてしまったのだ。そうに違いない。 だから背中から恐怖が追いかけてくる。おぞましいほどの熱や、言葉や、掌の形をとって。 『お前の代わりなんて、俺は要らない』 がちがちと歯が鳴っている。そんなもの、もう、当たり前すぎた。 ひっきりなしに涙が流れて、視界は失血も重なって暗く、それなのに、背後から迫る不可視の光の塊に焼かれそうだった。 『お前はそうやって、いつまで今を否定しつづける気だ!?』 いっそ焼き尽くせ。早く、早く、焼き尽くしてくれ。 もういっそ飲み込まれてしまいたい。あの光。暗闇よりなお深い絶望によく似た、光の底へ。 そうしたら全てが終わるなら、自分が消えるというのなら、喜んでそうしただろうに。 『俺を、無意味に、するな』 『本当に俺を望むなら俺を見ろ。俺を選べ―――』 『この目に・・・・俺を映せ・・・・』 涙が止まらない。 嗚咽はまともな呼吸にさえならない。 闇は深く、先が見えない。 (お願い、だから) (なぁ、本当に、頼むから) 俺を、呼ばないで。 そんなふうに呼ばないで。 暖かい手も、言葉も、要らない。要らないんだ。 (お願い、俺を、) 心からの懇願を、弱音や絶望でしかないそれを、声にならない声で吐いた時、衝撃が襲った。 一瞬、頭の芯がぶれる。そんな中で、体を襲った痛みに、ああまだ、この体は生きているんだ、焼き尽くされてなどいないんだ、なんて、愚かな絶望を抱いた。 「―――――ッ!!」 ズザッと体が横滑りした。元々這うような状態だったから、ダメージは少なかった。ただ背中を襲った痛みに、知らず体を捻り、見上げた視界に写るのは銀色。 鋭利な、凶器。 横なぎに払われた、獣のような腕。鋭利な爪も、尖った耳も、見慣れたもののように思った。怖くもなんともなかった。ただ、現実だった。 硬い爪に切り裂かれた背中に、深い傷が三本。避けた肉は骨にまで達してはいない。呆然としながらも、戦闘に慣れきった意識の片隅が受けたダメージを冷静に算出するのこそ、非現実的で。 重なり合う木の葉の隙間から零れる月光の、中。 口から泡を吹いてゆらりと立つ、獣じみた姿。 焦点の定まらない目は血走って、ただ、破壊衝動に突き動かされている。 暴走した妖怪だ、頭の片隅がやっぱり、当たり前のように結論を下した。心も、体も、その結論には麻痺したように動きはしなかった。 村を覆っていた結界が解かれたために、餌の匂いを嗅ぎ付けて妖怪が近づき始めていたのだとは、悟空は知らなかった。知っていたとしても、どうでもよかった。 何もかもが結果でしかないのなら。 これが結果の一つだというのなら。 振りかざされる爪を悟空は見上げていた。片方だけの暗い視界の中、それは欠片さえ、恐怖ではなかった。本当の恐怖の万分の一にも値しない。 それはむしろ、恐怖でしかない光の直中にふいに落ちた、醜い黒い染みのようだった。 己にとっては慣れた、もののようだった。 光より闇の方が。 真っ直ぐに伸びていく道よりもぽっかりと開いた暗い穴の方が。 怖くなんてないから。 だから不思議なほど、あどけない目で、顔で、悟空はただそれを見上げていた。まるでやっと、親しいものに出会ったように、来るべきもの来たのだというように――――安堵に、近く。 受け止めようとして、いた。 正気をなくした妖怪の口から迸る哄笑、咆哮、それは。 最後の慈悲を許す、託宣のようにさえ。 目を、閉じた。 当たり前だと、思った。 「ギヤアアアァァァッ」 予想した衝撃は振らなかった。この身を切り裂く刃は届かなかった。 代わりに鼓膜を劈く獣の悲鳴。 愕然と見開いた目に写るのは、さながら悪夢を描いた童話のような、非現実的な光景。 暗い視界の中でぼこぼこと幾多の木の根が隆起する。土が盛り上がり、異形の手足のように木の根が伸び、撓り、狂気のように妖怪に襲いかかる。 悲鳴が轟く。 意思を持つもののように翻る木の根は、容赦なく妖怪の身に巻きつき、四肢を貫き、身動きを封じていく。正気を失った妖怪がどれだけ暴れても何の遠慮もなく。当然だ、痛覚すらもたない木々の一部が、怯むわけもなく。 他愛ない絵本を見るようだった。暗い森の中で、木々が自らの意思で敵を襲っている。影の乱舞のようにも見えた。子ども騙しの怪談のようだった。 唇が無意味に震えた。 がりりと、爪が土に食い込む。爪の間に入り込んだ冷たく湿った土の感触が、まざまざと。まざまざと。 ――――現実、で。 「・・・・っ、めろ・・・・・」 握り締めた手の中で土が潰れた。 ぐしゃりと、なんて容易く。 「やめろ、やめろよ・・・・!!」 新しい涙が吹き零れる。悟空にはわかるからだ。これが悪夢ではなく現実なのだと。悟空を――――大地の子を守ろうとする、大地の意思なのだと。その意思が動くはずのない木々を動かし、加える必要もない攻撃を加えさせているのだ――――こんな、泥まみれで倒れている、ちっぽけな存在のために。 がりがりと大地を掻きながら、悟空は叫んでいた。泣きながら叫んでいた。 「もういいから・・・・!守らなくていいから!俺、なんて、守ったりするなっ・・・・」 それは大地に向けた叫びであったし、もっと違うものに向けられた叫びであったのかもしれない。 「どうして、そんなことするんだよ・・・・どうしてっ・・・・!俺は・・・・っ」 そんな、もの、要らないのに。 守られたく、なんて、ないのに。 好意も善意も要らない。愛なんてもっと要らない。そんな優しいものは欲しくない。受け取る資格がない。不幸しか呼ばない。許されるはずがない。許されたくもない。なのにどうして。どうして、どうして、どうして――――。 「・・・・・っ、ねがい、だか、ら・・・・選ば、ないで・・・・・」 ――――そして、光が降った。 要らない、必要などどこにもない、奇跡が、また、起こってしまった。 どうして。奇跡という物はいつも、絶望を伴うものでしかないのだろう。 「――――おやめなさい」 凛、とした声だった。けれどとても柔らかに響いた。猛り狂う大地を沈める、清水のような声だった。 「聞こえないのですか、この声が。お前達が守りたい、愛し子が嘆く声が。・・・・怒りを静めなさい」 とても綺麗な光が周囲に満ちた。つい先刻まで追いかけ続けてきた、焼き尽くす恐怖の光ではなく、全てをそっと慰撫するような、柔らかく、暖かな、光だった。 「わかるでしょう?わたしはお前達の愛し子を傷つけはしない。荒ぶるのをやめなさい。お前達に、そんなものは相応しくない」 壊れた蛇口のようにだらだらと涙を流し続ける目で、悟空はもはやなんの感情もなく、それを眺めた。 安堵も恐怖もない。 ただ失望だけがあった。 目の前に見えていた終わりを、掴みそこなったのだ。それだけが、確かだった。 「お前達が、あの子を守るためにすることが、あの子を泣かせているのですよ。・・・・それは、お前達も望むところではないはず」 この優しい声もまた、今は、絶望でしかなかった。 ただ、それだけを思いながら、悟空は疲れきった体を大地に転がした。 ゆらりゆらりと黒い影のように木々の根がうねり、柔らかな声に宥められるように、ゆるゆるとその身を下げていく。土の下、あるべき場所、へ。 それを確認して、さくり、さくりと軽い足音が近づいてくる。縦横にうねった木の根が作り出した大地の隆起の上を、まるで水の上を滑るような優雅な足取りで。 近づいてくるものを、開いただけの視界に悟空は見ていた。 それもまた、失望の一つの形でしかありえない。 もう何も見たくない。もう何も聞きたくない。 何もかもが間違っていたようにしか、思えなくて。 「―――――初めまして、孫悟空」 力尽きたようにその身を無防備に投げ出して、涙を流しながらただ見上げてくる大地の子どもを見下ろして。 その存在は優しく、優しく言った。 万感の思いを込めているように深く、そして同時に、断罪のように厳しく。 声は降った。 「会いたかったわ」 「あなたに、とても、会いたかった――――」 微笑む、姿を機械的に悟空の瞳は捕らえた。 それは最初、小柄な老婆のように見えた。ただ、淡い燐光を身に纏っているだけの、何の変哲もない、姿のように見えた。 ふぅわりと、風が流れるように、その光が柔らかに揺れて――――。 「・・・・」 声もなく、悟空は瞠目した。 光が、強くなっていく。それなのに、どこまでも柔らかく、淡く。 老婆の姿にぶれるように重なり合う、姿。新しい姿。美しい――――柔らかな色彩と曲線だけで構成されたようなその姿に、声もなく息を呑み――――。 「・・・・お、れ・・・・あんたを知ってる」 見たこともない。けれど確かに知っている。懐かしい姿。 否、違う、この懐かしさは悟空のものではない。そう認識をして、語空は顔を歪めた。 胸の中央を噛む痛み。 思い出したから。これが誰の懐かしさであるのか。どこで見た記憶なのか。 「・・・・あんたを見た・・・・あの時」 冷えた塊が喉を伝い落ちていくような嫌な感覚。 遠く失せていた現実味が、ゆるゆると戻ってくる・・・・。 たった一つの記憶によって。 たった一人の記憶によって。 ああ。 あの男に会わなければ。 今も自分は、何にも、気付かずにいたのだろうか。 「・・・・新世界を、作る時・・・・光の中・・・・あいつと、同調して、あいつの、記憶の中、で・・・・」 その名を震える唇は紡がない。 紡ぐことができない。 あまりに深い痛みに繋がる記憶だから。 深い慙愧の念と。 愛惜と。 憎しみに。 「・・・・・・鈴麗」 代わりのように。 呪うようにその名を呼んだ。 目の前の相手は笑った。 女として嫣然と。女神として清廉に。 そこに・・・・居た。 30話という数字に遠い目になりました。ああ、もうそんなに書いたのですねぇ・・・。 冒頭の2文は、砂漠編のカット絵に添えられていた文章を引用してます。 「彼女」の本当の名前をようやく出せました。まぁ、もう皆様おわかりだったと思いますが。 焔の恋人。道ならぬ恋の罪で、人間にされて地上に落とされた神様です。 彼女はきっと彼女なりに強かったのだろう、と思って、いつか考察して書きたいと思っていました。 いろいろ考えていたんですけど、ああ、この人は今の三蔵と同じ立場にいた人なのだな・・・というのが基本コンセプトですね。 それから、悟空が封じられたのが岩牢だっていうのが、とても不思議だったんです。だって神石(仙石でしたっけ)から生まれた大地の子を、何故その眷属たる岩の牢に閉じ込めたんだろう?と。 もしかしたら、それは、悟空を守るための檻でこそあったのかもしれない、とずっと思っていました。三蔵が来て結界が解けたのは、罪が許されたからではなくて、檻より確かに悟空を生に縛り付ける存在が現れたから、とか。 でも悟空という存在はこんなにも生存を望まれているのだ、と。ある意味、もう、当事者じゃなくて第三者から突きつけられなければならないのかもしれない。 |
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