桂は溺れていた。口の中をみたす唾液と、水を掻くような重たい闇の中で。
濡れた網膜が視界を歪ませる。平素よりも速い鼓動が、膜を張ったような耳の中に籠もって、鼓膜を打つ。汗で濡れた着物は重く、もういちまいの皮膚のように、ひたりと四肢に張りついて、からだを深く沈ませる。
見上げる天井は、水面のように暗く不気味に揺れて、水の中をゆっくり、ゆっくり落ちていくような錯覚を、桂に起こさせた。足の指に力が籠もり、敷布が不規則な波紋を描く。まっすぐ、水面に向かって腕を伸ばす。指の先が、何か熱っぽいものに触れた。かつら―――。名前を、呼ばれた気がした。ぎゅうと眉を絞って目を凝らすと、薄闇の中に、桂を俯瞰する赤い隻眼が、見えた。
「―――……ぁ、」
唇を抜けたのは、珠のような空気の泡ではなく、生温く濡れた溜息一粒だけだった。薄膜に覆われたようなぼんやりとした感覚が、視力、聴覚が明確化するにつれて、桂に戻ってくる。じわりと、汗が滲んだ。からだが熱い。呼吸が乱れている。帯に引っ掛かっているだけの着物は、汗でぐっしょりと濡れて、手足を縛っていた。痙攣のように一度腰が大きく跳ね、収斂する粘膜が、腹の中の異物を思い出させた。じわじわと水が沁みていくように、それまでの記憶が目の前に広がる。辿っていくと、また、腰が跳ねた。
手首に巻きついた指は、鎖のように冷たく、力強かった。腕の自由を奪われ、抵抗も許されないまま(無駄だと諦めていただけかもしれない)、壁に繋がれた。唇を押し付けられ(顎は自分から持ち上げたかもしれない)、舌の杭が後頭部を壁に打ち付けた。冷たい指と、熱い舌の温度差に、からだは痺れたように硬直した。ただ奪うような口吸いの合間、集中する息継ぎの隙に、膝が脚を割る。無骨な手が着物を開いて、触れるか触れないかの淡い感触でからだを這い回り、背中が壁伝いに崩れていった。そうして、あっという間に組み伏せられた。腰の上に跨った高杉は、獣のように喉を鳴らしていた。それだけで、たったそれだけで、つめたくてあついものが、桂の下肢に集中した。からだを強張らせて、じっと耐えた。高杉の身勝手な行為にではなく、持て余してしまう、からだの熱を。
何度も、高杉の前で開いたからだだ。いい場所も、わるい場所も、知り尽くされている。それを悲しいとも、悔しいとも、情けないとも思わない。桂は、それをただ、気持ちいいと思う。欲しがる時は、好きにさせてやるのが一番だとも思う。高杉は桂を簡単に、上手に溺れさせることが出来るし、からだを繋いでいる間は、どこかへ出て悪さをすることもないのだから。
腹を破りそうなくらいに突き上げられて、桂の中心を、痺れるような衝動が駆け抜けていった。目の前に白い頂が明滅して、桂は呆気なく、自分の腹を、申し訳程度に引っ掛かっている着物を、体液で汚した。それと同時に、からだの内側が、高杉の体液で濡れるのも、感じた。
「そんなに、よかった?」
高杉の揶揄する声のとおりに喉が震えて、そこを一筋の汗が落ちていく。荒い呼吸に上下する桂の腹の上は、珠の精液が崩れて流れる。桂のからだの中でまだ硬さを保持する高杉は、浅い場所でゆっくりとした抜き差しを繰り返して、敏感な粘膜をくすぐった。中に出された精液が掻きまわされて、泡になって入口に滲む。絶頂を迎えたばかりのからだに尚も強いられる、強いような弱いような、甘いような苦しいような刺激。皮膚の下で、少し冷めた熱が再び沸点を求めて渦を巻く。咽喉から、嬌声の残滓が漏れる。伸ばしていた腕を、無意識に高杉の首に絡めていた。
「もういっかい?」
低声が振動させる空気までが鼓膜を嬲り、思わず首を竦めた。高杉の赤い隻眼が、愉悦に細められていく。
「もう、いいだろ。やめろ、気持ちが悪い」
掠れた言葉尻は狂人じみた笑い声に覆われ、その隻眼は赤が隠れるほどに細められた。高杉は粘ついた笑みを浮かべながら、指先で桂の腰骨の尖りを、くびれを、臀部に繋がるやわらかい曲線を辿る。血の匂いのするような毒々しい笑みで、舌の上に飴玉を転がしたような甘ったるい声を耳許に吐く。
「いいっていうんだよ。そう、教えたろ?」
甘く上擦る声は、餓えた獣を思わせた。唾液に濡れた牙を思うと血液が冷え、その奥の真っ赤に熟れた舌を思うと、腰の辺りに快い寒気が落ちて、脚が戦慄いた。
「……色狂いが」
呆れたようにそう言い捨てて、伏せる間際の視線に険を少し混ぜただけで、もう好きにしろと、からだの力を抜いた。大仰に吐き出した溜息には、からだの中に溢れる熱を混ぜて、そっと逃がしながら。
つれねーなァ、と高杉は、淋しそうに声を擦れさせたけれど、唇は鋭い三日月を描いたままだった。
「久々に会えたんだ、朝までつきあってくれよ。お前だって、この様だ。嫌いじゃねぇだろ」
「嫌いだよ、俺は、おまえが」
惰性的な応酬に、それでも高杉は楽しそうに、尖った喉を揺らした。赤い目をふわりと撓めて、甘い息を吐いて、けれど口角を高く吊り上げて、汗に濡れた髪が張りついた頬を裂いて、笑った。柔軟なのだか獰猛なのだか判らないそれは、精を放ったばかりの疲弊と倦怠の色を纏い、酷く高杉に似合いだと思った。
紫黒の髪が、顔の半分を覆う包帯、耳、首筋を長く覆っている。少し、伸びすぎている。桂は首にかけていた手で、頬にかかる髪を指の先で軽く撫で、耳にかけてやる。汗を含んだ髪はしっとりと冷えていた。そのまま指の腹で耳の裏を撫でてやると、高杉は擽ったそうに首を曲げた。曖昧な刺激に弱いのか、高杉は、桂の手を取って柔らかくそれを拒絶し、また、ごまかすようにその手のひらを頬に当てて、笑んで、囁いた。こんな時ばかりの、甘い声で。
「なあ、今度は、おまえが上になってよ」
言うなり腹の中を埋めていた質量が、一気に引き摺り出される。きつく蓋をされていたそこから、熱くて硬い肉と体液が水音を立てて抜けていった。言葉にならない吐息が、桂の唇を洩れる。空っぽになった腹の中に心許無さを覚える間もなく、強く腕を引かれる。自分の重心をかけて桂を引き起こす高杉の上に、倒れるように覆い被さる形になった。
からだを繋ぐのも二度目なら、高杉を根本まで埋めこむのも容易だった。熱を口に宛がって腰を落とすだけで、ずるずると奥に沈んでいく。すんなりと馴染む他人のからだの一部をその付け根までつつみ、ゆっくりと息を吐いて馴染ませる。そうしている間にも、焦れているのか、煽っているのか、高杉が腰を浮かし、下からいたずらに突き上げる。皮膚の薄皮の下で大きな蛇が這いずりまわるような、ざらざらとした官能がからだを巡るのが判った。唾液で唇を湿らせてから、桂は自らも腰を動かし始めた。
高杉の熱塊を、ふかい場所に感じている。桂自身触れたこともないような場所に、高杉を招き入れて、そこで勝手を許している。内壁を削ぐような衝撃とともに高杉の熱を根本まで喰らう。内臓を押し上げられる圧迫感は、苦しくて、呼吸もままならないくせに、それが引き出される瞬間には、縋るように締め付けてさえいる。揺すっているのか、揺すられているのか判らないほど夢中で腰を動かし、突き上げられるその先が掠めていく快感を、追いかけて腰が浮く。揺れる度に長い髪の先が腕を擽っていくのさえ、桂を淵に追いやった。結合部分からは、絶えず体液と水音が滲み出る。皮膚の下を満ち干のように這いずっていた衝動の間隔が短くなり、周囲の闇が、押寄せてくるように、世界が縮まっていく。自分と相手の輪郭が曖昧に暈けて、溶けて、混ざっていくような錯覚に陥る。
太腿と腰骨が、汗ばむ腹と手のひらが、熱で溶ける。崩れる。混ざり合う。腹の中が、頭蓋の奥が、熱い。高杉との行為は、いつも桂を激しく乱す。粘膜と粘膜で繋がっているからだろうか。触れた場所から高杉の感情が流れ込んでくるのではないか、そんな錯覚さえ、桂は抱く。狂い出してしまいそうに熱くて、悲しくて、苦しくて、ただ爆ぜる瞬間だけを、つよく願うように。
仰け反る首の上に三日月が浮かぶ。内側に籠もる熱が三日月を溶かして、その滴を垂らす。高杉の前でだけ露わになる、桂の暗く卑しい綻びだ。きつく目を閉じると、目蓋の奥には、二度目の頂きの空白が視えた。からだの中心を突き抜けていく白痴の衝動は、もう恐ろしいものではないことを知っている。高杉の衣に必死になってしがみつく。桂の手の中で、花に溺れ惑う蝶がぐしゃりとひしゃげた。
水中花
晋の目は翠もいいけど赤いのも可愛くて夏(20110806)