プレリュード7
Prelude7
08/2/17
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「プラーター」での公演があるその日も、靖彦はK市へ来た。
いつもより早く来て繁華街をぶらぶらした。
ステージが始まる前に隣りの「トリエステ」へ行った。
ステージを見ようか、見るのを止めようかと迷っていた。
「珍しいですね」
カウンターに座った靖彦にマスターが声をかけた。
隣りのライブハウスが始まる前の、まだ早い時間に「トリエステ」へ来たことはなかったからだ。
マスターが自分の顔を知っていることには驚かなかった。
靖彦は浮かない顔のまま頷いた。
本当はK市へ来るのをもう止めようと思っていた。
きっぱりと、サクルムのダンスと縁を切ろうと思った。前日まではそう思っていたのだ。
だが気がつけば電車に乗り、K市に向っている。いつもより早く、かえって見逃すまいとするかのように、注意深く時間を計算している。
殆ど無意識でそれをやっていることに、靖彦は自分で驚いている。
心の中ではK市に行くかどうかを、公演を見ようかどうしようかとずっと迷いつづけていたのに、その意識が脳に到達する前に、身体が先に行動を始めている。意識の前に、身体が勝手に動いている。
「サクルムのファンの方でしょ。彼らのステージがある時に見かけるから」
「…そうです」
店はまだ早いので他に客がいない。マスターは靖彦相手に話し始めた。
「彼らのファンの八割は女性だけど、二割は男性だ。その二割の半分くらいが金持ちのオヤジで、彼らの尻を狙ってる」
マスターは笑いながら皮肉っぽく、そう言った。
今まで話しかけて来たことが殆どないのに、急に親しげに話し始めるマスターに、靖彦は不審を募らせた。
「あとの半分は金のない男」
「…それはどういう意味ですか」
「貴方もそうでしょ。男たちが半裸の恰好でステージで踊ってる。それを見るのが好きな男ってのは…、どういう好みか、まあ丸分かりってことで」
靖彦の呼吸が困難になり、口が乾く。
マスターの顔が、歪んで見える。
「あの子たちもそれを狙ってるんです。何しろあまり金にならない商売だから…。生活が厳しいらしくてね。あの子たち、それぞれパトロンがいますよ」
「…」
言葉が出なくなる。
マスターの言葉が心臓の中心に突き刺さる。靖彦にとどめを刺すような。
石沢は。
咄嗟に石沢を思い浮かべる。彼もなのか?
男が好きだと言っていた。彼もまた?
マスターは何もかも知っているようだった。確かに彼は知っていた。
サクルムのメンバーがこのパブに出入りをして、雑談の中でいろいろな話をするのを聞いているだろう。いろいろな情報を知っていて当然だ。そしてそれは正確なもののはずだ。
「トリエステ」の客と情報を相互に与えたり、仕入れたりすることもマスターにとってごく当たり前のことだろう。
今までマスターとはそれほど話をしたことはなかったけれど、客として靖彦の姿を見知っている。だから靖彦に、彼らメンバーの裏情報を伝えているつもりなのかもしれなかった。
或いは靖彦への皮肉のつもりなのか。からかうつもりなのか。それとも靖彦に釘でもさすつもりなのだろうか。
「貴方は美郷のファンなんでしょう。何度か彼と一緒にいるのを見たことがある」
「……」
「でもあの子はやめた方がいい」
マスターは、意味ありげに言葉を切った。
「あの子は金持ち専門なんだ」
「え…っ?」
「だから、企業の経営者、会社役員、工場主、議会の議員まで…。そういう客だけ」
「客?」
靖彦の顔から、血の気が引く。
「そう。そういう相手だけ。体を売るのは」
「体を…売る…」
「そう。あの子は男娼なの。金持ち相手のね。金持ちでないと買えない。特別だから」
「それだけじゃない。あの子のパトロンは恐い人なんだ」
咄嗟に靖彦は思い出した。ベンツの黒いあの…
「あの男じゃない。あの男はただのボディガード。もっと恐い人がいるの」
「嘘だ」
「嘘だよ。嘘だと思っていた方がいい。ステージの上の素晴らしい美郷だけを見つめていたらいいんですよ」
「プラーター」へ行く。
既にステージが始まっていた。
美郷が踊っていた。
眩しいスポットライトが美郷に当たる。
上半身は裸で、脹脛で紐締めにするふわっとした薄い布のズボンを穿き、首に金の首飾りを、手首と二の腕にもそれぞれひとつずつ、全部で四個の金のブレスレットをし、肩から腰にかけて斜めに細い錦織のような布をかけていた。
見たことのない衣装だ。
曲は「マタイ受難曲」。新しいレパートリー。
靖彦のガールフレンドはサクルムのファンだった。中でも美郷のファンだった。
しかし靖彦がサクルムのステージに通うようになったのと殆ど同時にファンをやめたようだった。
靖彦と別れたのとほぼ機を同じくしてサクルムから離れて行った。それは偶然だったのであろうが、そういえば彼女がファンを辞めた理由は聞かなかった。その時は深く考えてはいなかったからだ。
美郷は裸足で踊っている。裸足で舞台を踏みしめ、跳躍する。
靖彦のまったく見知らぬ美郷がそこに居る。
靖彦は美郷から目を逸らした。
目を逸らせばもう二度と見ることが出来ないような気がする。
だがもう見ていることが出来なかった。
もう一度目を向ければ、そこには見るに耐えぬ醜い生き物が蠢いているような気がしたのだ。
靖彦は、美郷を憎んだ。憎くてたまらないと思った。
ステージへ目を向けることなく、客席から立ち去った。
「トリエステ」のドアを開け、出る間際、首が自動的に後ろへ振り向いた。
見たくないと思ったのに、振り向いてしまった。
踊り終わった美郷が客に向ってお辞儀をしているところだった。彼は客席を探すような素振りをした。
靖彦にはそのように見えた。
憎くてたまらない。
もう、美郷に対する思いは萎んでしまった。
急速に、その気持ちが冷めてしまった。
美郷は憎くて、醜い生き物にすぎなかった。
冷めてしまうと、神秘の化けの皮がはがれ、そのようにしか思えなくなった。
靖彦の視線は宙をさ迷う。
目から熱いものが滴り落ちた。
美郷は美しかった。
美しく、妖しく靖彦の前で輝いていた。
The End of Part
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