石の荷 4
(鴨川慕情2-4)
07/6/20
雲は分厚くなり、あたりも徐々に暗くなってひと雨来そうな雰囲気になっていた。が、どちらも立ち上がろうという気持ちにならない。
観光客の人影は多いが、広大な敷地に散っているのでまばらである。
より一層深さを増したように見える新緑の木々から渋い五重塔が見える。
「吾ただ足るを知る、っていうのは俺には何となく分かったかな」
「そうですか?」
「不幸なことはいろいろあって、なかなか思うようには行かないさ。だけども、だから幸福なことがあったら、それはほんの小さい幸福でもすごくありがたく感じるだろう」
「…そうですね」
「それですごく不幸だったことも、もうチャラになっちゃうんじゃないかってね、そう思った」
「それが吾唯足るを知る、ですか?」
「うん。満足するってのは消極的なことじゃない。今ある境遇から満足を探さなくちゃならない。積極的にならなくちゃ満足には至らないのさ」
「忠弘さんは禅の精神を感得したんですね」
「そういうこと。かな」
忠弘は悪戯っぽく笑った。
忍が何か言いたそうにしたが何も言わない。
喋っているうちに忍のことが頭に浮かび、まるで彼を諭しているようになってしまったことを少しだけ後悔した。
小さい雫が肩にぽつんと当たったような気がした。
「雨かも」
「ひと雨来るかな」
「宸殿にでも行って雨宿りしますか」
「五重塔の下じゃ駄目かな」
二人は立って中門を出て歩き出した。
境内では、まだ大勢の観光客が寺の案内図を見たり、ゆっくり散策する者がいて、慌てている様子はない。
「だけどあれだ。俺たち、全然浮いてないね」
「え?」
「男同士二人連れって、何かこう目立つかもしれないと思ったんだけど、全然目立ってないし」
「そう言えば…」
「男の二人づれっていうのもごく普通にいるしさ」
「そうですね。男二人の観光客って、わりと見かけた」
「あいつらが全部ホモってことはないよな」
「案外いるのかもしれないけど」
「ちょっと心配してたんだ。男二人、って」
大勢の観光客の中では、二人はごく平凡な、大勢のうちの二人に過ぎなかった。
こういう時に忠弘は世の中の広さと自分の小ささを改めて思い知る。
そして自分と、自分たちの性向に無関心な者が世の中のほとんどである、という事実が、忠弘が、安心して世の中で生きていける所以でもあった。
中門から歩いて左に折れ、露天にある菩薩の前まで来た。
どちらからともなく二人はその前で止まり、そのまだ新しい石仏を眺めた。
「僕はあれから、自分が間違った人間だと思うようになって、どうしてもそれが頭から離れなくなった…」
と忍は言った。
「男の人を好きになるのはいけないことだ。間違ったことだと思うようになって、」
空は暗くなってゆく。雨は降りそうで降らない。
境内にいる客は次第に少なくなって来た。
急いで霊宝館へ入る客もいたり、急ぎ足で門を出る客の姿もある。
「だから、男の人を好きになっちゃいけない、と自分に言い聞かせるようになったんです…」
「…失恋して、から?」
忍が頷く。
「…今でもそう思ってる。どこかで…。それは、罪なんだって」
「俺もそう思うことがあるよ」
「忠弘さんが?」
忠弘は菩薩を眺めていた。
「いつでも思ってるかな。男同士なんて、どう考えたって…」
「何で女を好きになれないんだ。何で男なんだよ、って」
「…」
「普通に好きな相手と結婚出来る奴は、考えもしないだろうな。それがどんなに幸せなことかって」
忠弘は言葉を切った。しばらく考えた。
「忠弘さん」
二人は、ずっと菩薩の顔を眺めていた。何の菩薩なのか分からないのだったが、眺め続けた。
「俺たちが正しいか間違っているか、そんなの誰にも判断は出来ないよ。多分、間違ってるんだろうけど。でも、自分は絶対間違いを犯してないって言える奴もいないさ」
忍は石仏から目を離し、地面に視線を落した。
「…ずっと、僕は罪を背負って行くんだと思う」
「罪?」
「…、父に対して。父を悲しませたこと…」
搾り出すように、忍は言った。
「すみません。僕は暗いですね」
「…君が何もかも吹っ切れて、軽い奴になったら魅力がなくなる」
しばらく経ってから、忠弘は口を開いた。
忍は少し苦笑しながら歩き出した。
「俺は君のそういう所が好きでたまらない、ほんとだよ」
忍を追いかけながら忠弘が言う。
「そういう所?」
「いじらしい」
忍が、仁王門の手前で止まる。
「…」
「君だけじゃないさ。誰でも重荷は背負ってるんだ」
「一生背負って行く?」
「うん」
忍の父への気持ち。父への思い。じゅうぶんな理解は出来ないが、思いは分かる。そう思った。
分からなくても分かりたい。そうして気持ちを分け合いたい。
「キャリー・ザット・ウェイト…フォー・ロングタイム」
「ビートルズか」
忍が頷く。
二人して、仁王門の階段を降りた。
「あの仮想キス良かった。帰って本物のキスをしよう」
「仮想?」
「うん、バーチャル・キス」
「ふふふ」
「仮想セックスもしてみたかった」
「本物の方がいい」
「大胆だなあ、忍君」
ようやく降り始めた雨に濡れながら、二人は仁王が立つ門を後にした。
The End of Part