石の荷 3
(鴨川慕情2-3)
07/6/20
竜安寺。
虎の子渡しの石庭で有名である。
臨済宗の禅寺。世界遺産に登録されている、本来、近くの妙心寺の塔頭である。石庭の作者は意外にも特定されていない。
「うわあ、ここは」
石庭の前に座る多くの観光客を見て思わず声が出た。
「人のいない時に来たかったな」
堂本印象美術館の前を通って、きぬかけの道を歩いた。
歩いている人は少ない。だが車がひっきりなしに通る。
きぬかけというたおやかな名前にしては不粋な路だった。
「しょうがないです。こんなに整備してしまったから、車に通るなとも言えない」
大学の広大な敷地があり、向いは山だ。
山だけ見れば鬱蒼とした木々が茂り、市中からわずかな距離とも思えない。木々は新緑で緑が深かった。
「小さい、小さいって聞いてたんだけど」
「やっぱり小さいでしょう」
「枯れ山水だからこんなもんだろう」
シンプルで飾り気がなく、どうということもない庭だ。立って、古びた垣根と低い屋根を眺める。
「君はここへは来たことがあるんだったっけ」
「何度か。つくばいを見に」
「吾唯足るを知るか」
「複製ですが」
庭の前に座っている沢山の客はなかなか動かなかったが、ようやくスペースが開き、二人で座った。
「本当に良い庭だよ、人さえいなかったら」
「そうですね。朝早くに来るとか」
「元来人で賑わうべき庭じゃないね。ひっそりしているのがいいんだろう」
「有名になりすぎたのかな」
池は、散歩するのにぴったりだった。
大きな池で、睡蓮の葉がびっしりと一面を覆っている。蓮の葉も伸びていた。池の脇には白と紫の菖蒲が可憐な花を咲かせている。
池の周りを散策する者は少なく、落ち着いた気分が戻る。
「吾唯足るを知る。禅か」
「僕はあれを見るとお菓子を思い出すんです。お菓子があるんです。落雁というのかな」
忍が、いつもに似合わぬことを言う。
「うまそうだな」
「美味しいです。…禅は分かりません」
「煩悩が多すぎるかい」
「…そうですね」
池を半分ほど巡った所で二人はベンチに腰かけた。向いに方丈が見え、その向こうに山が連なり、さらにその奥には曇り空が広がっていた。
静かだった。音がしないのだ。
「ここはすごいなあ。山が見える。衣笠山かな」
「どうかな、もう少し向こうのような気も」
「だけど本当に山ばかりで、何も遮るものがないんだなあ。すごいよ」
「そうですか」
「寺なのか池なのか山なのか…、人工のものがいつの間にか自然のものに変わってしまう。…やっぱり京都は実力があるね」
忍は黙って笑う。
「ここってまだ町中なんだろう?」
「右京区ですね」
「素晴らしいなあ、竜安寺ってこんな所だったんだ」
「僕も好きです、竜安寺」
忠弘は忍を見た。
「珍しく意見が合ったね」
「そうですね。来て良かった」
池を覆う睡蓮の葉に所々花が顔を出している。水面が時々動くので、何らかの生き物が棲んでいるのだろう。
「君にキスしたくなったよ」
「それは駄目です」
「分かってるよ。でもいいだろ、想像するだけなら」
「想像?」
「うん、ここで想像するの。ほら、君の首筋に唇を這わせて…」
「何だかいやらしいなあ、言葉が」
忍が思わず首筋を押さえる。
「今君にキスしたよ」
「本当ですか」
「ただのキスじゃないぜ、ディープ・キス」
「何だか感じて来た」
「そうだろ。ほら、舌を絡ませろよ」
「…」
「もっと。本気で…」
「あ、…もう」
「君を感じる。すごく求めてるのが」
「体が熱い…」
「キスだけで熱くなるの」
「うん…」
目の前の池を見ながら、脳裡には互いが唇を求め合っている画像が、くっきりと浮かんでいた。そして、相手の唇の感触が確かにそこにあるのだった。
二人はじっとして、その感触を確めた。
「最高に良かった。今の」
ベンチを立って再び池の周りを歩き始めると、まもなく行き交う人々とかち合う。
池を一周して出入り口に戻れば、修学旅行生の一派と出会った。
人の途切れた間のほんの束の間の戯れが、貴重な偶然の時間のように思えた。
竜安寺を出てから、再びきぬかけの道を歩く。
途中から森が途切れ、普通の建物が並んでいたが、さらにそこをまっすぐゆく。
「寺はあまりはしごしない方が良いと思うんですけど」
忍の言うとおりだった。
寺にはそれぞれの良さがあり、それを堪能するのに短い時間であちこち行くものではない。だが近所だからつい全部、という気持ちも捨て切れない。
御室仁和寺は巨大な門に仁王が構えている。
「ここは御所だったから…、金閣寺や竜安寺の禅寺の雰囲気とは違いますから…」
「そうだね。御殿へ入らないで無料区域だけ散歩するか」
仁王門を入ってすぐ左に勅使門があり、そこに人が群がっている。書院などを拝観するコースだ。
そこに入る人々を横目で見ながらまっすぐ歩き、もうひとつの門をくぐると御室桜の低い密集地に出る。
桜の季節には有料になる場所だが、今は背の低い木々が葉を茂らせている。
五重塔があり、広大な敷地に金堂や観音堂など密教らしい建造物が並ぶ。
ここはここでまた別の観光客で賑わっている。
二人のようにきぬかけの道からはしごして来る者もいれば、太秦あたりから流れて来る者もいるのだろう。
少し先は衣笠と言ったがここはもう御室だ。
二人は五重塔のよく見えるあたりに腰を下ろした。
「ここは来たことがあるの」
「前を通ったことは」
「仁王様?」
「そう。かっこいいですよね。町の中ではああいうの、ないから」
「君のとこは浄土宗だっけ?」
「そう、誓願寺」
「ははは。雨でなくて良かった」