三十三間の闇

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「君がそうしたいのなら」
あっさりと、立花はそう答えた。
躊躇いのない返事だった。
「い、いいんですか」
「君はそうしたいんだろう?」
床の間の、冬の掛け軸を見ながら、岬は心の奥の、自分の修羅を覗いた。
「…これまでに、抱かれたことはあるんですか」
「ないよ」
「…それなのに?…」
「君の望んでいることを、してあげたい。それが私の望みだ」
「…」
「君はきっと、抱かれているだけでは物足りないんだろう。私は一方的に、君から自分の楽しみだけを求めようとは思っていない。私に出来ることなら、君の望むどんなことでもしたいと思っているよ。だから、喜んで君に抱かれるよ」
立花は、そう言って岬に唇を求めて来た。
岬は夢中で立花の唇を貪った。
立花を抱き締めて、上下を入れ替える。
男二人の荷重で布団が捩れた。
嗜虐的な欲望が目覚めて、今しがた放出したばかりのところが再び硬く兆した。
荒々しく立花を組み敷き、自分が彼の肌に愛撫を加えてゆく。
理性はどこかへ吹き飛んでいた。獣のように自分の欲情に身を任せ、体の欲するままに立花を求めた。
立花は無言だった。
立花は、これほどまでに荒く激しい岬の欲望を、まるで喜んでいるようにも、そして恐れているようにも見えた。
岬が立花の体を後ろに返した時も、彼は無言だった。
岬の目に、ふと欄間が目に入った。
彫刻されていたのは水鳥なのか。
目の前を、羽ばたいて飛び去ってゆく音がした。
*
「どうして?」
と立花は訊いた。
「すみません」
布団に仰向けに寝そべって、岬は涙を浮かべていた。
「抱きたいなんて、嘘です」
そう、言った。
「立花さんを、試してしまった」
「…試した?」
「どうして、そんなに僕を愛してくれるのか、分からない」
仰向いたままで、岬は涙を流した。
なぜ、涙が出るのか分からないままに。
「君が、君だから」
と立花は言った。
「酷薄なところも。非情なところも、君だ。君らしい」
「立花さん…」
「…君のせいじゃない」
*
美術工芸大学の受付に、博物館の招待券が積まれていた。
高台寺蒔絵と南蛮漆器、というタイトルの展示会のものだった。大学の教授が推薦していた。
パッケージ・デザインを志したい岬には、見ておきたい展覧会だった。蒔絵の図様はさぞ参考になるだろう。
一緒に哲学の道を歩いた彼女に、行かないかと誘った。
彼女は行くと答えた。
その日、京の底冷えがようやく温もうという頃に、約束していた。
学校から博物館へ直で行くことにする。
博物館は七条東山、豊国神社の南側にある。
彼女が授業を終えるのを校門前で待っていると、やがて彼女はやって来たが、急にアルバイトが入ったと言って謝った。
来週の思文閣美術館には行くから、と済まなそうに言う。
仕方がなく、岬は一人で博物館へ向った。
一人でこのような展示会に来るのは、久しぶりだと思った。
最近は必ず立花が連れて行ってくれた。
そう言えば、立花はどうしているだろう。
あれから、会っていない。
岬は気まずい気持ちだったが、立花はそんなことを気にする男ではないだろう。そのことが、岬には分かるようになった。
立花には細君がいるが、おそらく細君に対しても誠実なのだろう。
岬に対してと同じように。
金をもらって立花の欲求に奉仕するはずの岬が、自分の欲望を立花に求めることなど、してはならないことなのだった。
にも関わらず、立花は岬の言いなりになろうとした。
黒地に金の細工が施された絶妙なデザインの文箱などを見ながら、立花のことを考えた。
今度遇った時も、変わらず自分を受け入れてくれるのだろうか。
ふっ、と岬は笑った。
金をもらって身体を許す。
それだけの関係のはずなのに。
博物館の別館へ行って、2階の絵画室を覗いた。
軸ものが展示されている中に、「雪中鶏図」というのがあった。
あの南禅寺近くの旅館で見た、床の間の掛け軸の絵に似ていた。
旅館の掛け軸が、有名な絵を模したものだったのだろう。
その絵の絵葉書を買って、博物館の外へ出た。
向いは三十三間堂だった。
まだ暖かくない時期のことで観光客は多くはないが、季節はずれの修学旅行生などはいて、そこそこの人出がある。
岬は横断舗道を渡り、角を曲がって三十三間堂の入り口へ向かった。
ふと堂の入り口を出て、向いの寺へ歩く男の二人連れに目が止まった。
かなり離れた位置にいたので、二人連れは岬に気がつかない。
始め、二人連れの一人が和服を着ていてそれが珍しく、遠くからでも気を留めたのだった。
だが、次に、和服の若い男の連れが、紛れもなく立花であることに岬は気がついた。
気がついたと同時に、無意識に二人の後をついて歩いた。
和服の若い男。…そう言えば、と岬は記憶を辿った。
能楽堂の能を見に行って、楽屋へ入った時、役者の世話をしていた若い付き人に、良く似ている。
あの男なのだろうか。
着物の色柄が良く似ているからだろうか。近くへ寄れば分かるのだろう。が、それ以上は確かめられない。
二人は寺の横の狭い通りに入った。
連れ立って歩いているというよりは、若い和服の男が立花を誘導しているかのように見えた。
狭い通りは夕方で薄暗く、人通りはない。
岬も思い切ってその通りに入ろうと思った。
単に、知り合いと歩いているだけに違いない。
けれども、そこに自分の知らない立花がいる。
自分に向けてではない笑顔を向ける相手がいる。
それだけで、身を灼かれるようだった。
建物の影からそっと、狭い通りの向こうを伺ってみた。
小路の先は行き止まりのようで、ビルの壁が建っている。
二人は誰もいない薄暗い通りの中ほどで立ち止まり、口論をしているように見えた。
和服の男が、立花の腕を掴む。
そうして、揺する。
立花を非難するような動き。その中に、甘えたような、拗ねたような、何とも言えぬ媚びがあるのを、岬は感じた。
男同士の間の、空気が止まる。一瞬間があく。
そののち、若い男は、立花の胸の中に身を投げ出した。
そうして、そのまま立花の唇を求めた。
二人は、唇を重ねた。
***
摩和羅女像が好きだ、と立花が言っていたことがあった。
彼女の像が、仏像の中で一番好きだと。
蓮華王院(三十三間堂)の二十八部衆の一つだと聞いた。
博物館の帰り、見て行こうと思っていたのだった。
頭を殴られたような衝撃に呆然としたまま、岬は表通りをふらふらと歩いた。
七条大橋に出て、川を見た。どのようにして自分の下宿まで戻ったのかは、半ば意識がないのだった。
二人は、岬にはとうとう気づかなかった。
小路を突き当りまで歩き、二人は横に折れた。
そこにはホテルがあった。
ラブホテルではない。七条通にも面した、大きなホテルだった。
立花が、自分を愛しつつ、他の男に心を移すなどということは考えられなかった。
あの二人の様子から、若い和服の男が立花に無理強いをしたのだ。
それとも、岬が希望的予測でそう思うだけなのか。
立花という男は、決して浮ついた、誰とでも寝るような、見境のない男ではない。
あるいは、単にそう思っていたいだけなのか。
岬は、凍てつくような焦燥にかられ、惨めな思いに浸った。
嫉妬なのか。独占欲なのか。
或いは両方なのか。
思いついてメールをした。
立花に、どこにいるのかと。
会いたい、とは書けなかった。
連絡はなかった。
*
三月、春・弥生。
春になったら醍醐寺へ行こう、と立花が言っていたことを思い出した。
―あそこには秘宝があってね。住職に特別に見せてもらえるんだ。
そこだけではなかった。もっと、共に行きたい処があった。
もっと、立花に案内して欲しい処があった。
翌日、立花からメールがあった。
―済まない。当分会えないかもしれない。また連絡する。
そっけない内容。
それだけで、自分を切られるのかもしれない。
仕方がない。目先の欲望だけに動かされ、好き勝手をしている自分が悪い。自業自得だ。
収入が減ってしまう。バーのアルバイトで稼ぐしかない。
携帯の画面を見つめながら、岬は涙を流していた。