祇園祭の海5
紺青の海 夏編 5/5
07/7/24

時刻は昼近く、マンションの3階の窓の外からは、狭い通りが徐々に人で膨れ上がって来る様子が見てとれた。
テレビの巡行中継はもう終盤で、巡行の最後を飾る南観音山の動いている場面が映り、アナウンサーが締めの言葉を語っている。
新町通りのかどには、既に鉾の巨大な姿が見えている。長刀鉾が、この通りを今から通るのだ。
遙は隣にいる男に肩を抱かれながら、窓から見える通りの北を一心に眺めていた。
「遙?」
男が呼ぶのでなんですかと振り向いたら、いきなり唇を奪われた。
「うううっ」
突然のことで慌てふためいているのに男は遙を離そうとせず、遙の唇を激しく貪り、長い間遙を弄び続けた。
ようやく離されて唇を拭っていたら、向いの町家の二階で同じように鉾を待っている中年の女と若い女が目を丸くしてこちらを見ているのに気付いた。
「ひ、人が見ているのになんてことをするんですか」
「ええやん、別に」
のんびりと男が言う。
「ばれてしまいましたよっ」
「何が」
「ここに、男同士がカップルで住んでいるって、向いの人に」
「名前を知ってるわけでもなし別に」
「恥ずかしくないですか」
「あいつらが見てたんや。ワシらを珍しそうに。そやからサービスしたった」
「サービスって…なんの」
呆れて、それ以上の言葉が出て来なかった。
「ほらほら、もう来るぞ」
お囃子の音が、どんどん近づいて来るのだ。
慌てて窓に目を向けると、いつの間にかついそこに長刀鉾の巨大な姿が迫っていた。
「うわあ、うわあ、うわあ」
鉾が動いている。
窓から真下を見ると、鉾の前に、編み笠を被り、法被を着た20人くらいの男がいて、鉾の前面から伸ばされた引き綱を引っ張っている。
市内のメインストリートを巡って来た彼らの動きは、最終段階に入って、いかにもしんどそうだ。
鉾の櫓が、眼の前に迫る。
曳き方と同じくらいの人数のお囃子方が乗っていて、祇園囃子を大音響で奏でている。
彼らが鉦を叩くたび、その鉦から下に垂らされた綱が上下に動く。
鉾の屋根にも法被を着た何人かの人が乗っていて、あみ隠しから伸びた命綱を持ちながら立ち上がっている。
マンションの窓から見ていると、彼らがすぐ近くに見える。手を伸ばせば届きそうだ。
「すごい」
「こんな近くで見たん初めてや」
「届きそうですね」
「うむ。窓から出て、鉾に入れてもらえ」
「うわあ、本当に入れそうだ」
遙が身を乗り出す。
鉾がぐらりと揺れた。
「あっ、倒れる」
がったん、ギシギシと言って鉾が左右に揺れて止まった。
遙たちの目の前で、鉾が止まって動かなくなった。
曳き方たちが、綱を地面に下ろした。
すぐ前に見える鉾の屋根の上の、屋根方が綱を引いたり立ったり、忙しく動く。
下で、音頭取りがわらわらと出て来て、鉾の前に乗り、たっぷり準備をしてから、扇を翳す。
曳き方が改めて一直線に並んで備える。
「ヨーイトセー、エーン、ヤーラーヤアー」
その合図で、また動き出した。
動いたが、また左右にグラグラと揺れながら進んでゆく。
「ああ、びっくりした。倒れるかと思った」
動作を途中で止めた遙がほっと息をついた。
「危なかったな、今の」
男も驚いたらしく、遙を掴まえながら固まっている。
「お囃子の人、全然驚いてないです」
「あいつら結構心臓強いな」
お囃子方は何事もなかったかのようにお囃子を奏で続けている。
人力で、2メートルほどもある木の車を動かしているのだから、鉾の上部へ行くほどゆらゆらと揺れが大きくなる。囃子方を乗せている櫓もぐらぐらと大きく左右に揺れている。
だが囃子方は揺れに慣れているのだろう。
「あれ、かっこ良かった。扇でエンヤラヤーって」
「うむ。こんな前で初めて見た」
「まるでサービスしてくれたみたいですね」
遙は目をきらきらさせた。目を鉾から離さず、見続けている。
「あれ、これ長刀鉾やのに稚児がおらへん」
男がようやく重要なことに気がついた。
「お稚児さん?」
「長刀鉾には生稚児が乗ってるんやけどな」
「さっき、注連縄とか切っていたお稚児さんですか」
「うむ、何でやろ」
「お色直し?」
「しんどなって休んでんのかな」
鉾は真木を左右に揺らせながら遠ざかってゆく。
今しがた見ていたテレビとは比べ物にならない迫力だ。
「ふわあ、圧倒された」
興奮が収まらない。
「これが一番目やぞ。これから次々に来るんや」
男が北側を指差す。
そうすると、その指先にもう違う鉾が近づいて来ている。
「うわあーっ、あれ何」
屋根の上に昆虫が乗っている。昆虫の巨大な模型だ。
緑色で手足が長い。かまきりのようだ。それが、わさわさと動いている。
「蟷螂山や」
「山ですか」
「山や」
鉾のように車を人が曳いているのではなく、山車のように担がれている。けれども車はついていて、ごろごろと動いている。
「からくりで動いてるらしい」
「かまきりが?」
「そうや」
「わー、動いた動いた」
遙の目の前でかまきりが触手をカクカクと動かしたのだ。
「サービス満点やな」
「ふわああー」
男がソファに座って、水を飲んでいた。ただの水だ。
遙は窓の桟に体を預け、横座りして外の喧騒を見つめている。
「遙、しんどなったんやろ」
「…」
「おい?」
「…えっ、…まさか…」
気の抜けた返事をする。
男が遙に近づく。遙はどんよりした目を男に向けた。
男が笑う。
「目が寝てるやんけ」
手にしたコップの水を遙に渡し、飲むように促す。
男はなぜか湯ざましをからのジュース瓶に溜めておいて、それをコップに注いで飲むのである。
「ずっと見てても終わらへんぞ。飯食いに行こか」
「えっ。でも…」
水を飲んだあと、外に再び目をやって、遙はそこから視線を動かさずに生返事をした。
「お前、はしゃぎすぎたんや。死にかけてるぞ」
「でも…、せっかくなのに、…こんなチャンス」
「はよせんと飯食いはぐれるぞ」
男は遙の頭をくしゃくしゃと撫でると、ワイシャツのまま、上着をつけずに部屋のドアに向った。
「遙…。無理して死にそうになってまで見てんでええねんぞ」
「はあ」
「あれは長すぎっさかい、自分でどっかできり付けんとあかん」
「はあ」
遙は男が大股で歩くすぐあとを、男のワイシャツを掴みながらよたよたとついて歩いた。
祭の終わったあとは、妙に虚しく、さみしい思いがこみ上げて来るものだ。
つい今しがたまでわくわくどきどきしながら待ち、見て、心を躍らせていたものが、夢から覚めたように、急速にあとかたもなくその形が消え去り、躍らせていた心までが消えてゆく。
町の喧騒は、どこからともなくわらわらと現れた男たちの後片付けのざわめきに変わっている。
いったんは虚しい思いにとらわれたものの、遙はその姿を見て、心のうちに再び充実感が広がるのを感じた。
巨大な山鉾がみるみる解体され、柱や木片に戻ってゆく。
道を歩きながら、綱や、松の木や、巨大な車輪など、組み立てられていた山鉾のパーツが道路に散乱しているのを見る。
祭の裏側の断片にも、晴れ晴れしく華々しい祭のハレの舞台の記憶が刻み込まれていた。
ハレの場面のひとつひとつが徐々に甦って来る。
それは体の奥深くに縫い込まれた記憶となって身の内に残っていることを実感した。
とても贅沢な時間なのだった。
巡行が続いている間に食事をしたり、まだ終わっていないのに席を立って、それぞれが自分でそれを終わりにしてしまったり。
けれども町のどこかで、今この時もそれが続いている、と思うのは、それだけでもう晴れがましいことに違いなかった。
そういう時間を過ごしたことが、その時間の長さの分だけ、忘れ難いものとして残っている。
アスファルトのきつい照り返しを受けながら、町のざわめきを聞いている。
何ごともなかったようにまた時間が過ぎてゆく。
だが町全体が、ひとつの思いを共有したかのように、そこは充実した情感に満たされていた。
遙は、横に歩いている男に何か言おうとした。
そして男の顔を見たが、どうしてもその言葉が出て来ない。
それは、礼の言葉だった。
「お兄さん、ありがとうございます。…おかげで、こんな充実した時間を過ごすことが出来ました。お兄さんのおかげです…」
…
けれども、それを言えなかった。
なぜなら遙は、今まで男に対して憤慨していて、理不尽な扱いを受けて恨んでいたはずだったからだ。
そんな男に対して礼を言うなんて、どうかしている。そう思うからだった。
彼が、自分にしたことを許しているのか?
今でも憤慨しているはず。今でも許せないはずだ。
でも、そんな恨みがどこかへ行ってしまったように、彼に感謝さえしている自分の気持ちが、そもそも良く分からない。
遙は混乱していた。
そんな自分の気持ちに気がついて、うろたえている。
だから男の顔を見ながら口を噤んでしまった。
***
祇園祭うちわと、月鉾のちまきと、キティちゃんのぬいぐるみをテーブルに並べた。
これから4年間を京都で暮らし、そして、或いはそれ以上暮らすことになるかもしれない。
この3つの品は、その最初の年の記念の品だ。
来年も同じような体験をするとは限らない。
同じ体験をしたとしても、今年のような激しい驚きと、激情はないかもしれないのだ。いやむしろそれはもうないに違いないと思う。
だからこれは、一回限りの体験の思い出になるのだろう。
夏休みには百円ショップでアルバイトをする予定になっていた。
お盆には交代で休みが取れるから、少し早い目に郷に帰ろうと思っている。
それ以外はずっと、京都で過ごすのだ。
男には、とうとうどんな感謝の言葉も述べないまま別れた。
感謝を伝えた方が良かったのだろうか、それとも言わないままの方が良かったのだろうか。
また男はやって来るだろう。
だけど…
そこまで考えて、遙は考えるのを止めた。
ちまきを手に取り、マンションの部屋の扉を開けて、外に出た。
扉の横、自分の名字の書かれた札の上に、ちまきを飾ってみた。
町のあちこちの家の玄関にそうされているように、自分もそうしてみた。
一年間の厄除け。
遙はしばらくそのちまきを眩しげに見たあと、扉に鍵をかけて、マンションを出た。
The End of part