Story

祇園祭の海4
紺青の海 夏編

07/7/17

ぐっすりと眠り込んだ。

気がつけば男は横におらず、あたりはすっかり明るくなっていた。

正体なく眠り込んでいて、いつ男が寝床を抜け出たのかも知らなかった。

居間との仕切りが大きくあけられ、テレビが点いているのが見えた。

テレビの前に男がいて、低いテーブルの上に牛乳とロールパンが置かれている。

新聞を膝の上に広げて、テレビを見ながら読んでいるようだった。

遙はとりあえずTシャツだけを羽織り、居間へ行った。

 

男は組んだ足の上に新聞を置き、ロールパンを食べていた。

「パンとサラダやったらあるぞ、冷蔵庫に」

NHKのニュースを見ながら、言った。

「は、はい」

遙はキッチンの横のテーブルにサラダと牛乳を置き、トースターにパンを入れた。そこで食べることにした。

「あの…」

キッチンテーブルから、男に話しかける。

「何や」

「巡行は始まってるんでしょうか」

遙の興味は、それだけだった。

「どやな」

そう言って男はテレビのチャンネルを替え、京都放送を映した。

いきなりコンチキチンという囃子が聞こえた。

「あっ」

「コマーシャルやな。コマーシャルまで祇園祭やっとる」

コマーシャルが終わって、四条通が映る。

いつもよく通る通りだ。

そこに巨大な鉾が何基も列を作って、すでに人の群れの中にある。テレビカメラが俯瞰で四条通の鉾を捉えていた。

 

「テレビで祇園祭をやってるんですか」

遙は驚いてテレビ画面を見つめた。

「ローカルで毎年やってるな」

鉾がすでに動いている。

巨大な車輪がゴロゴロと言って動き、その横に車輪を動かす法被姿の裏方さんの姿が映る。

鉾の前に太い綱が2本つながっていて、それを持った曳き方という20人くらいの男たちが綱を引っ張って、それで鉾を動かしているのだった。

次にお稚児さんが稚児舞を演じている場面が映った。

「長刀鉾か。9時ちょっとすぎやさかい、始まったとこやな」

「たくさん鉾があったのに、見ただけで何鉾か分かるんですか」

遙は目を丸くして思わず訊いた。

「うーん、京都のもんは…」

男が邪魔くさそうに説明する。

「山鉾32基の先頭が長刀鉾で、それにはお稚児さんが乗ってる、いうのは京都のもんなら誰でも知ってるんや」

「山鉾って32あるんですか」

「そや」

「昨日見た鉾以外にもそんなに沢山あるんですね…」

遙はトーストにバターを塗りながら、テレビ画面を見つめた。

薄いブルーの裃姿をした少年が、四条通の真ん中で、房のついた細長い漆塗りの箱をうやうやしく掲げて進み出る場面が映っていた。

「あっ、これは何ですか」

「遙、お前やっぱりもうちょっと勉強しといた方が良かったな」

「すみません」

テレビの実況が、くじ改めが始まりました、と言った。テロップにも大きく「くじ改め」と出る。

「くじ改めというんですか」

「うむ…」

「うわあ、すごい。こんなことするんだ、かっこいい」

ハムを乗せたパンを頬張りながら、遙は呟いた。

「この男の子、随分練習したんだろうなあ」

「遙、食べるかテレビ見るか、どっちかにし」

「すみません」

遙はサラダを特急で口に入れて、もぐもぐ言わせた。牛乳を飲み、パンをかぶりつく。

「慌てな、まだ始まったばっかりや」

「は、はい」

「どや、巡行」

男は遙の方を振り返って、訊く。

「はい、すごいです。素晴らしいです」

「そうか」

「あっ、これは」

「注連縄切りか」

実況アナが、四条堺町に張られた結界を表わす注連縄を…と解説している。いつも通る四条通が、どことなく違う道のように感じられる。

「遙も見るんやったらこっち来て見」

「はい、今」

コマーシャルの間にばたばたと牛乳びんを片付け、皿を洗い、皿を拭いて、テーブルの上をふきんでぬぐう。電光石火の早業は、いつもの朝で慣れている。

「お兄さんのも」

男の前の牛乳びんと、バスケットを片付ける。ローテーブルをふきんで拭く。牛乳びんを洗い、ふきんを絞ってふきん掛けにかける。

 

男の座るソファの横に遠慮がちに座ると、男が何気ない動作で遙を抱き寄せた。

「キティちゃんは持ってこんでええんか」

「いいです」

むっとしながら答えた。

男の腕から逃れようとするが、がっしりと掴まれて、なかなか出来ない。

「お前が男なのがほんまに残念や」

「えっ」

「お前が女やったら、離さへんにゃけどな」

そう言って、男は両手で遙を自分の胸の中に収める。

「むぎゅ」

男の胸の中に入ってテレビが見えなくなる。

「やっぱり、女の人とここにいたかったと思ってるんですね」

息を詰まらせながら遙は言ってみた。

「おっぱいのある女の人」

「ちゃうがな。どっちみち、お前が女でも身分が違うさかいな。手は出せへんかったけどや」

「…身分って。現代だから、そんなのないのに」

祭を見たいと思いながら、男の胸の中から、男を見た。

「身分はあるで。お前は大学へ行って学者になる身分やからワシらとは全然違う世界や」

「お兄さんはどんな身分なんですか…」

「ワシは大学も行ってへんし、賭場にしろ何にしろ人の金くすねて生きてる身分や。クズやしな」

「ちゃんと、その、働こうと思わないんですか…」

「会社員なんかなるのはゴメンや。効率よう儲けるのを考えるのが一番や」

「ふ、普通の女の人を好きになったらどうするんですか」

「おもろいことを聞くなァ」

「…」

「ほんとに惚れた女には手を出さへん」

 

テレビの画面では、先頭を行く長刀鉾が四条河原町の四つ角で、辻回しを行なっていた。

音頭取りの4人が扇子をあざやかに舞わせると、綱を引く曳き手がいっせいに力を込めて、鉾をぐりぐりぐりっと方向転換させた。

見物人からさかんな拍手が起きた。

一度では回り切らず、車輪の下にふたたび竹を敷いて、それを水で濡らす作業が続く。

作業はのろのろと進み、なかなか次の辻回しが行なわれない。

テレビは、四条河原町に陣取った中継アナが興奮ぎみに喋っているところを映している。

 

「…僕は男なのに、どうして手を出したんですか…」

会話の続きにさり気なく切り出した。

「そういうけどな、男はしまってるのや、女よりずっと具合がええ」

にやりと笑って男はそう言った。

「それに遙はコンドームがいらん。ろうじのどんつき…袋小路やしな。女は生理もあるし、いろいろ面倒や」

遙は少しげんなりした。

どぎつい言葉と、いたって即物的な理由にも気圧された。

そんな理由だったのか。どこまで本当か分からないが。

男の言葉を全部信用出来ないとどこかで思っている。

遙を抱え込んでいた男の腕が、遙の背から下に降り、尻をさすろうとした。

「おまえ、ケツ丸出しか。下に何にも穿いてへんのか」

「あ」

遙は途端に真っ赤になった。

「やらしいやっちゃな。すっぽんぽんで」

ばたばたばたと寝室へ走り、ベッドの下に落ちていたパンツを急いで穿く。

ばたばたばたとまた走って居間へ戻った。

 

男はじろりと遙を見て、

「月鉾やぞ。昨日乗ったやろ」

テレビの画面を見ながら言った。

「あっ、これが?」

テレビカメラがビルの屋上からのカメラに切り替わり、月鉾の鉾頭の三日月を映した。

遙たちが夕べ乗り込んだあの鉾が、しずしずと四条河原町の交差点に進み、辻回しを行おうという所だった。

「こんなだったかなあ?」

『月鉾は32基の山鉾の中でも最も重く、重さ14トン、また山鉾の中で最も豪華な装飾に彩られており、屋根裏の絵は円山応挙の筆になるものです…』

「あっ、お兄さんの言ったことを言っている」

「そやろ。合うてるやろ」

『うさぎや亀の彫刻は左甚五郎の作と伝えられています…』

「わあ…、お兄さんの言うとおりだ」

「当たり前や」

男が悦に入る。

遙はふたたび男の腕の中に入り、いっしょにテレビ画面を見た。

「お稚児さんが乗ってる」

「あれは人形や」

「えっ?…あ、本当だ。カクカクしてる」

「明治時代に作られたらしい」

四つ角の所定位置に鉾が止まり、法被を着た男たちがどこからともなくわらわらと現れ、鉾の前輪の周りを取り囲む。あれやこれやという怒号が飛び交う。

今まで東を向いて進んで来た鉾が角度を90度変え、北へ進む準備をするのだ。

 

「あの鉾の上に乗ったんだなあ…」

遙に、昨日の興奮がよみがえって来た。

そして昨日は大人しく立っていた鉾が、こうして何十人もの人に曳かれ、屋根にも人を乗せ、音頭取りをも乗せて動いているのを見ると、なぜか自分のことのように晴れがましく、嬉しい気持ちになった。

「もうちょっとしたらここの前を通るぞ」

男は、リビングの窓を指差した。

開け放したそこからは表通りが見え、向かいの町家が見えている。

面している通りは新町通で、32基の山鉾は、この新町通を通って各山鉾町へと帰ってゆくのだ。

遙は立ち上がって窓に近寄り、外を覗いてみた。

通りの電信柱にはすべてネットの覆いがかけられ、準備されている。

狭い通りなので、通りの両側にロープが張られ、巡行の妨げにならないように、人が通りに出られないようになっているが、それでも鉾が来ない今はあちこちに人が出ていて、山なりになってざわめいている。

向かいの町家の二階にも、待ち切れないというような様子で、外を覗いている人がいる。

「みんな待ってるんだな…」

まだ四条通に巡行を始めたばかりの鉾があるのに、この新町通で、帰って来る鉾をもう待っている人がいる。

「みんなすごく詳しいんですね…。鉾について」

窓の外を見ながら遙は呟いた。

「ここら辺の、鉾町のやつらはほんまに好きやしな。祇園祭が。よう知っとるし。ここら辺の家の軒先見てみ、必ず鉾の粽が飾ったる」

「粽…、昨日もらった奴ですね」

男がソファの中から頷く。

「テレビでは四条通しかやらないのかなあ」

「テレビではそうや。行くとこだけで、辻回しも四条河原町のだけや。終わりまでやらへん」

「じゃあ、ここなら終わりが見られるんですね…」

遙の声はだんだん、独り言のように小さい声になっていく。

狭い新町通の人々のざわめきは、鉾が来るのを今か今かと待つ、期待の度合いを示していた。

交通整理に出ているお巡りさんまでが、巡行列が来るのを待っているように見える。

遙はふたたび男のそばへ行き、ソファに座った。

ごく自然という風に男は遙を引き寄せ、自分の足の間に座らせる。

男は時々遙の頬を撫で回したり、髪をくしゃくしゃといじったりした。

遙にずっと触れているのがいいらしい。

遙は、されるままになっていた。

どういうわけか、抗議をしようと思うほど、いじられていることが嫌に感じなかった。

むしろ、男の手の中にあることが心地よいとさえ感じる。

警戒心が解けて来たのかもしれなかった。

或いは、山鉾巡行という特別なイベントの只中にいて、そしてその中でも特別に恵まれた場所にいるということが、遙を舞い上がらせていたのかもしれない。

 

遠く、窓から御池通が望める。

警官の数が多くなり、人出が見る間に多くなって来たのが、遠巻きにもはっきり分かる。

遙はテレビの前から移動して、窓際に移って外を眺めていた。

男も遙の横にやって来て、窓の外を見る。

向いの町家でも、同じように二階の窓に家の者が集まり、窓から顔を出すようにして今か今かと待ちながら外を見ていた。

男が遙の横にぴったりとつき、肩を抱く。

「もうすぐ来るな、音が聞こえる」

「お囃子ですか。…あっ、本当だ」

昨日聞いた、祇園囃子が遠くに響いているのがはっきりと分かった。

広い御池通からこの狭い新町通りへと、先頭の長刀鉾が辻回しを行っているのに違いない。

 

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