紺青の海2
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05/11/22
前回までのあらすじ
主人公遙(大学1回生)は、弱みを握られ、ヤクザまがいの男に執拗に関係を強要されていた。
しかし男に強引に誘われるまま、東寺の弘法市を訪れると、歴史オタクの遙はすっかり喜ぶのだった。
納経所のある食堂(じきどう)には、真っ黒の、巨大な墨の塊のようなものが4つ展示されていた。
良く見るとそれは人の形をしていた。仏像のなれの果てのようだった。
「戦前の終い弘法の時に…」
男が遙に説明した。
「終い弘法言うのは、1年の最後の、12月の弘法さんのことや―その終い弘法の時に火の不始末で火事がいって、この食堂が焼けたんや。ここに飾ったった本尊と、四天王も焼けた。本尊は直したみたいやけど、四天王はこのザマや」
「火事…ですか」
驚いた遙は、飾ってある柵の近くまで近寄った。
塊の脇には、それぞれ広目天、増長天、持国天、多聞天という札が掲げられている。
目を凝らして、それらのもとの姿を想像しようとするが、どのように想像力を駆使してもそれは困難だった。
どう見ても、巨大な黒いカタマリだとしか思えない。「焼けるまでは4つとも国宝やった」
「ほんとですか…」
些かショックを受けて、遙には次の言葉が出なかった。ひたすら、黒い4つのひとがたを凝視するだけだった。
「……」
男は何故かものをよく知っていた。遙よりも歴史について詳しいのではないかと思う。
「近所のことやさかい、さんざん聞かされたんや」
食堂を出たすぐのところに骨董屋のテントがあり、五重塔や仏像の複製が沢山置いてある。阿修羅や仏頭、不動明王や、仁王などが並んでいた。
遙の足が自然と止まる。
沢山の人が行き交う境内で、テントの露店はそれなりに繁盛していたが、夕暮れが近づいて来て、そろそろ片付ける店もあった。
「おっさん、これどうせ型抜きやろ。5万は高すぎるがな」
男が店の主に文句を言っている。
「何言うてんねん、兄さん。型抜きでも本もんのブロンズやがな」
見ると、不動明王像だった。講堂で見たのと同じ形の、15センチくらいの大きさのものが置いてある。
遙は思い起した。講堂で、じりじりと燃え続けていた不動明王。
「これが欲しいんか」
「えっ」
「おっさん、安せえ」
「あっ」
遙は我に返り、小さな不動明王の像から視線を剥がした。
「い、いいんです。見ていただけですから…」
「千円にしとけ、おっさん」
「かなんな、あんた」
「お、お兄さん、お兄さん。い、いりませんから…」
遙は、必死になって男を止めた。
***
「兄さんDX東寺は行きませんの」
近所の料理屋で湯葉料理を食べている時、安が切り出した。
「まゆがおるがな」
「おったかて構いまへん。まゆも勉強や」
安がにやにやしながら言う。
まゆはひたすら食べている。
「なあ」
「いやあ。そんなん。見たっておもしろないわ」
「遙には勉強になるかもな」
男が言うが、遙には訳が分からない。
「そらそうでっせ」
男二人が合意し、行く事が決まる。
まゆが顔を上げ、小さい声で遙に耳打ちした。
「ストリップえ。DX東寺て」
悪戯っぽくまゆが笑う。
「えっ…」
遙は面食らった。
そんなところへ行きたくない。
遙にとってはまるで麻酔なしで手術台に登らされるようなものだ。
じわりと汗が出て来る。今にも席を立って、逃げ出そうかと思う。
「見たことないんか?いっぺん見たら免疫が出来るわ」
男が言う。
「女の裸、見たいやろ。ナマやで」
「お兄さん、僕は…」
男は遙の肩を抱いて自分に引き寄せる。
「どもない、どもない。女は別におまえを取って食うたりせえへんし」
遙以外の三人が笑う。
遙一人で脂汗をかいていた。
***
劇場の前にはどぎついポスターが貼られていて、それでさえまともに見られなかった。
一人で来たならまじまじと見たかもしれない。だが、男やまゆがいては、ばつが悪くておどおどしてしまうのだ。
遙は俯いて、頭を上げずに男のあとをついて中へ入った。
ロビーや、劇場の内部は普通の映画館のようで、少し安堵した。
しかし下を向いたまま男の後ろを歩く。
男は脇の通路をずんずん歩いて、従業員口へ入り、そこから楽屋へ向った。
突き当たりの、ざわざわとしている楽屋には、鏡が幾つか並び、その前に数人のあられもない恰好をした女たちがいた。
男は遙を促して中へ入れるが、遙はすっかりどぎまぎし、内部を見渡した途端、凍りついた。
「マリア、どや」
男が中にいる、裸の女の一人に声をかける。
「お兄さん、来てくれたん」
マリアと呼ばれた若い女が嬉しそうに言葉を返した。
細身の、美しいプロポーションの女だった。
スリムな身体には似合わない豊かなバストをむき出しにしながら、恥ずかしがるようすはいっこうにない。
身に着けているのは、下半身の、三角地帯を最小限に隠すわずかな布のみである。
鏡の前で化粧の真っ最中だったが、その顔も美しい。
彼女が、なぜこのような仕事をしているのか分からないくらいだ。
彼女ならモデルか、レースクイーンと言っても通用するだろう。「見てくれるのん」
「じっくり見たる」
「やあー、嬉しい。頑張るワー」
と女は無邪気に笑う。
「こいつ始めてやさかい、サービスしたって」
男が、あろうことか遙を彼女の前に突き出す。
「ええ、始めてェ?いくつ?」
「じゅ、18です…」
仕方なく遙は答えた。
「18やてえ。お兄さん、18の頃はもう踊り子さんと寝てたやんねえ」
「余計なことは言わんでええね。ほな頑張れや」
男は、マリアの化粧をした唇を避け、首筋に口を這わせて、場を離れた。
改めて劇場内へ移動しながら、
「あれはワシの女や」
と男が言った。
「き、きれいな人ですね」
と遙は言ってみた。
男は遙を見た。
「あいつが股を広げてみ。男やったら誰でもカチコチになるぞ」
「あ…の…。お、お兄さんの、その、恋人さんの…を見ようと思いませんから」
「アホ、恋人とちゃう。あいつはな、見られるのが好きなんや。見られたら燃えるて言いよる。ストリップのあとエッチしたらすごいぞ」
後ろにいた安が、忍び笑いをする。
「遙が抱いてもええぞ。何やったらワシと3人で…」
遙は、大変なところに来たと思った。
脂汗がだらだらと出た。
油断していたらとんでもない彼方に連れて行かれそうだ。
「ぼ、僕にはお構いなく…。ふ、二人でどうぞ…」
「ほかの女がええか」
男は食い下がる。
「あの。み、見たくないんで…」
「おまえ、ひょっとしたらほんまに女が嫌いなんとちゃうか。男が好きなんやろ」
男が鋭く遙を見る。
男が言いたかったのはこのことかと遙は思う。
「…分かりません」
「女を世話したろ言うてんのやぞ。もしかして女と寝たことないのんか」
「……」
―お兄さん、始まりまっせ
安が二人を遮って、舞台が始まることを告げ、二人を席へ促した。
ショーが始まってからも遙は決して上を見なかった。
ストリップとは思えないような、リムスキー・コルサコフの「シェラザード」が流れていたが、意地のようになって、下を向いたままだった。
見るならひとりでこっそり見て、こっそりセンズリをかくのならまだいいのだ。
だが、大勢でこんなに大っぴらに…、こんなに堂々と、ほかの男と一緒に見るものではないように思う。
それは臆病な遙の感覚からは考えられない行ないなのだった。「おい、次はマリアや。ちゃんと見い」
横にいた男が、遙の頭を掴んで無理矢理顔を上へ向ける。
そのまま遙の頭を掴んで放さない。
いやでも舞台を見なければならない状態になった。
マリアが、ラメ入りのロングドレスにファーのストールをつけて舞台に登場した。
ライトが当たり、ドレスにきらきらと反射する。
舞台のマリアも美しかった。
これから一枚ずつ、身に着けているものを脱いで行って、楽屋で見たようなあられもない恰好になるのだろう。
もしかしたら、それ以上の…ごくり、と遙の咽喉が鳴った。
「お兄さん、…お兄さん。すみません」
遙は隣の男に訴えた。すでに涙声である。
「何や、うるさいぞ」
「もう堪忍して下さい…」
「何やて」
男が横を向いた拍子に、遙を捉えていた手が弛む。
その隙をついて、遙は男の手を振り切り、席を立った。
そうして遙はいきなり走り出して、席の間を縫い、重い扉を開け、廊下を脱兎のように走った。
ロビーを抜け、劇場の扉を開け、また走り出した。
劇場の外へ出て、とにかく走った。
一歩でも劇場から離れたくて、息が続く限り走った。
どこだかは分からないが、大通りへ出た。そこでひと息ついた。
周りは暗く、街灯が灯っている。車の通りは多かった。
とにかく京都駅へ。
…我ながら何という気の弱さだろうと思った。
けれども、今の遙には、女の身体を見て楽しむ余裕はなかった。
男が要求する男同士の交情に、精神的な負担があまりにも大きくて、疲れて果てていた。
この上に、何を要求されるか分からない。
あまりにも唯々諾々として男に従いすぎて来て、このままではなにも拒否出来なくなってしまう。
大通りをとぼとぼ歩きながら、
―何を言われても拒絶出来ないくせに。―
情けない自分を呪っていた。
「おい、こら」
車道から怒鳴られて、びくっとした。
「あっ」
後ろを振り向いて、飛び上がるほど驚いた。
車の運転席から、男が顔を出していたのだった。
遙は咄嗟に走り出した。
相手は車だからすぐに掴まるのは当然だろうが、反射的に逃げようと思ったのだ。
「こら、遙、待て」
言われて、止まった。
どうせ、どこにも逃げられないのだ。
男が車を脇に寄せるのを待った。
―どうせ、どこにも。
すごすごと、開けられた車のドアから助手席に座った。
男に、どのような揶揄をされるか。どんなに皮肉を言われ、ボロカスに言われて傷つくか。
今まさに逃げ出したことも男を激怒させたのに違いない。遙は怯えて、震えた。
遙が助手席につくと、男は
「悪かったな」
と言った。
「えっ」
思わず男の横顔を見た。
「お、お兄さん…」
「遙にはまだ早かったな。人にはタイミング言うもんがあるしな」
男はいつもと変わらない表情で言う。
「お前は女より、歴史やら仏像やらがまだ面白いのやろ。そういう奴に無理矢理女を見せてもな」
「お、お兄さん…。…すみません。せっかく、誘ってもらったのに…」
遙は、もじもじしながら答えた。
「アホか、お前は」
「お兄さんも、その…踊りを、み、見損なってしまったし…」
男は車を走らせた。
「そんなことは構へん。下宿まで送ったろ」
「い、いいです。僕のことは…。あの、マリアさんと、その、今夜予定があったんなら…い、行って下さい」
「あいつのことはええね」
「でも…」
「何やったらお前がマリアの代わりをしてくれたらええ」
「…」
「どやね」
男の手管に、こうして乗せられてしまう。いとも簡単に、男の思いどおりに、男の仕掛けた罠に落ちてしまうのだ。
自分の愚かさを嘆くよりも、男の手際の良さを、賞賛したくなるほどだった。
「ほな別宅へ行こか。けど本宅の方が近いな」
遙はぽかんと開けていた口を閉じた。
いつの間にか、男と過ごすことになった。
「本宅…って…。奥さんがおられるのじゃ…」
「アホ、ワシはひとりもんや」
「えっ。…独身…」
「家以外にいくつかマンションを借りてるさかい別宅、本宅言うてるだけや」
「そうですか…」
また、間抜けな生返事をした。
「本宅に、一人で住んでおられるんですか」
「そうや。興味があるんか?本宅に。ほな案内したろ」
というわけで男の口車にまんまと乗せられてしまう。
長い渋滞の信号待ちを抜けて、京都駅とは逆方向へ、車は走った。
「明日学校か。ちゃんと送ったるし安心せえ」
「はあ」
男が笑う。
「お前は隙だらけやな」
「……」
「悪い奴に狙われるぞ」