紺青の海2
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「こっちや」
ボロボロの大きなお堂の前を過ぎ、右へ歩いた処にジュースを売っている露店があり、男がその店の中年の女と挨拶を交わし、毛氈を引いた床几に腰掛けた。
しょうがないので遙も腰掛けた。
「お兄さん、久しぶりやん、来てくれるの」
店の女がそう言いながら男と遙にジュースを運んで来た。
「おお。ほったらかしといてすまんな。どうしてるか思とったんやけどな」
「いやー、そんなこと。それよりお兄さん、なんで男の子連れてるの」
女が遙に目を止めて、問う。
「ああこれ、ワシのレーコや」
「えーっ。いやや、お兄さん宗旨変えとか?」
「そや。男も試したろ思て」
「いややわあ、まさか女に飽きたん?」
「まあな。女はガバガバやさかい」
「いやっ。へんなこと言わはる。ほら、この子かて真っ赤になってるやん」
「こいつ、すぐに顔に出るね。おい、帰るな遙」
立とうとした遙を男が押える。
「純情やなあ。今時」
女が笑いながら客を見にテントへ帰る。
男を恨みたくなる。
この男には恥の感覚がないのだろうか。
「兄さん、遅なってすんまへん。駐車場がいっぱいで」
安が女と連れ立ってやっとやって来た。
「それでどうしてん」
「事務所まで行って置いて来ました」
「事務所いうたらだいぶあるやんけ。そこから歩いて来たんか」
「しんどかったわー。ミュールやしぃ」
女がどさりと床几に腰掛ける。
「足はどもないけ。さすったろか」
「やーん。お兄さん優しいー。どもないと思うー」
男はまゆのミュールを脱がせて女の足を膝の上に乗せ、足をさすってやる。
「まゆ、兄さんにそんなことさせるな」
安が怒る。男は構へんと言って笑っている。
男が愉快そうに笑っているのを遙は初めて見た。
サングラスの奥は見えないが、いつもは鋭いあの目も笑っているのかと思った。
*
しばらく休んでから、男が腰を上げた。
「お前らもうちょっと休んでいけ。遙とワシはお堂へ行っとる」
「はい」
安は唯々諾々として男に従う。
「遙、来い」
男はサングラスを外してすたすたと歩き始めた。
「は、はい」
急いであとについた。
まゆが行きたそうにしたが、安に制止された。
朱塗りの柱が白い壁を格子状に取り囲んでいる。朱塗りが剥げて、ひどくみすぼらしい。
にも関わらず、屋根の瓦が全体を重々しく引き締めている。
東寺の講堂だ。外は人いきれもあってそこそこ暑いのに、お堂の中はひんやりしている。
既に数人が堂内にいたが、ものすごい数の外の人数に比べればとても少ない。
だが二人きりではない。なぜここに誘うのだろうと、そのわけをあれこれ考えながら遙は足を踏み入れた。
「うわあ…」
堂内に入ると、遙は小さく声を上げた。
薄暗い堂内の広い台の上に、夥しい数の古い仏像が列を作って並んでいる。
暗いから良くは分からない。けれども、古のものたちの息遣いがあった。それを感じる。
「すごい…」
すぐに圧倒された。
「好きそうやな」
「は、はい」
即答した。
「…あまり詳しくはないですけど…、でも。…ああ、こんなことなら、もっと調べて勉強して来たらよかった…」
入ってすぐの場所に四天王のうちニ体。それに挟まれるように蓮華座に座した梵天像が並ぶ。
それだけで気圧されしてしまう。
五菩薩。五智如来。
ステージ上であるかのように並ぶ仏像の前を歩き、中央に立つと大日が安置されている。
「忍者みたいな結び方しとるのや。よう真似した」
「…よくここに来られたんですか」
「近所やしな」
「ああ…」
さらに進むと、明王群が聳えていた。
「ああっ」
思わず身を乗りだし、フェンスに手をつく。
明王群の中央に、背に炎をめらめらと燃やした巨大な不動明王が怒りの形相でこちらを睨みつけていた。
「この不動明王は、日本のあらゆる不動明王のお手本なのかも…平安時代のものなら…」
「へんな髪形や。日本人ちゃうな」
「……」
遙は少しはっとした。
明王たちの向こう、一番奥に四天王のうちのもうニ体と、その真ん中に象に乗った帝釈天がある。
ずっと見ていたいと遙は思った。
明王たちも、四天王も、天部も、色は剥げ、木は朽ちているのに身体中からオーラを発散させ、静かに燃えていた。
こうして、千年以上も燃え続けていたのかと考える。こうして千年以上、朽ちて果てるまで、これからも燃え続けるのだろうか。
「おまえはほんまにマニアやな」
男が呆れる。
暗いお堂を出て、反対側の出口から砂利道へ出た。
「弘法さんにお参りでもするか」
男が露天の間を大師堂に向って歩き出した。
「…中学の修学旅行で来た時は、京都より奈良に興味があって…法隆寺とか…、それで平安時代は何となく軽蔑していて…」
「何で軽蔑するね」
「そ、それはあの、…奈良時代の方がプリミティブで…、あの、その、…」
遙は焦った。
男相手にこんなことを喋っているのに気がついて恥ずかしくなり、どぎまぎしたのだ。
講堂の仏像たちに圧倒され、つい興奮していた。
「…で、で、でも、こんなにすごい彫刻があるなら、平安時代もすごいなって、…その」
「何や? また顔が赤いぞ」
「すみません」
むき出しの弘法大師の旅姿の像の前には線香が焚かれ、大勢の人が手を合わせていた。
男も皆と同じように手を合わせる。
それに驚きながら遙も手を合わせた。
「別にただ合わせといただけや。信仰してるわけやない。ウチは浄土宗やし」
「…浄土宗」
驚いたあまりに、口が開いたまま塞がらない。
男は再びサングラスを嵌めながら、
「東寺はもうひとつマンダラいうのがあってな。それがお宝やけど滅多に見せよらん。もったいつけとんのや」
「マンダラって…ああ、曼荼羅図…ですね」
「おまえが京都にいる間に見れるかどうかやな」
「見れたらいいなあ…」
言ってから男を見上げ、思わずはっとした。
こんな風にごく普通に男と会話を交わすなんておかしい、と気づいたのだ。
男は何事もなかったかのように、遙の肩を再び抱いた。
完全にオタクな遙を描写してみました。 |