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紺青の海2

05/10/14

7

 

目が覚めたのは、昼近くになってからだった。

雨が上がっていた。

広いベッドに、しばらくぽつねんと横たわっていたが、次の瞬間に頭脳が忙しく働き始めた。

早く下宿のマンションへ帰って洗濯と掃除を済ませなければならない。

そのあと三日分の食事を買い、本屋へ行き、それからPCで調べものをして…

頭は動くが、まだ身体が言うことを聞かない。

しばらくそのままでいたら空腹を感じ、どうしようもなくなったのでようやくベッドを降りた。

何もないだろうと思いながら冷蔵庫を開ける。

冷凍庫には食パンがあり、何故か牛乳もあった。

小さな台所にはトースターもある。

男が食事をして行けと言っていたのを思い出した。

ここで、簡単な朝食を摂ろうと思った。

テーブルの下に、買った本が散らばっていた。

丁寧に揃えて、机の上に置く。

男がそれを見て、遙をオタクだと言った。

自分ではそんな風には思っていない。歴史が好きなだけだ。

それで、大学の学部も決めた。

悔しいと思う。

男にとっては、学問などどうでもいいのだ。

遙がそれがどれだけ好きで、遙にとってそれがどれだけ大事で、どれだけ生きがいになっているかなど、あの男にとってはどうでもいい。

遙は、単に男の暇つぶしの遊びとしてしか見られていない。

遙が、男の放つ言葉一つ一つ、愛撫する指先の一つ一つに汲々とする様子を楽しんでいる。

遙の人となりなど、何の興味もないのだ。

……

トースターの中にパンを入れながら、遙は思い直した。

だって、それが当たり前だ。

遙を自分の持ち物のように扱い、遙の人となりを否定し、遙を辱めるのが男の目的なのだ。

女のように扱うのも、遙に屈辱を与えるためだ。

獲物を陥れるのに容赦をしない。それが獣というものだ。

 

 

バイト先のコンビニに再び来られては困るので、マンションの住所を教えた。

教えなくても向こうは知っているはずだ。

いんちきバイトの募集をした時に、遙たちの住所はみな、男に把握されてしまっている。

それなら同じことと、下宿先を教えた。

頻繁に来るわけでもなかった。マンションの入り口から少し離れた車の中で待っていて、部屋の中に入って来るわけでもない。

今更入って来られてもどうということはないが、男は入ろうとしなかった。

何か、それなりに期する処でもあるのか。
男なりのけじめかもしれない、と、漠然と思う。

 

***

 

マンションからひとつ離れた通りで国産車が待っていた。

運転席に安がいて、助手席には派手な女がいた。

後ろの席に、男がサングラスをして座っている。

スーツを着て、黒いネクタイをしているので、どこから見てもヤクザにしか見えない。

遙が車に乗ると肩を抱き、

「これは安の女や」

と女を紹介した。

「ハロー、こんちはー、私ィ、まゆ」

派手な茶色に染めた髪の毛を結って散らし、大きな花のアクセサリーをつけている。
浜崎あゆみそっくりのメイクである。指先には派手な白のラインストーン入りの付け爪をしていた。

京都にこんなオリジナリティのない女がいたのかとひどく驚く。

「は、始めまして」

「いや可愛いなァ。いくつぅ?」

「じゅ、18です」

「いやー、若いわァ」

車は堀川に出て南へ下がる。広い通りで、渋滞もなかった。

「あの、どこへ…」

「弘法さんや」

男が短く答える。

「弘法さん…?」

「東寺の弘法さんエー」

と女が言う。

「とうじ…?」

「21日は東寺の弘法市や。弘法さんも知らんのか? おまえ、何しに京都に来とるね」

男がここぞと突っ込む。

「東寺…、ああ…、東寺は天皇から空海に下賜されたお寺だから、それで弘法さん…」

「えらいな、よう分かったな」

「遙ちゃんは頭がええのやなー」

下賜という言葉を理解出来ない女が褒める。いつの間にか名前を知っている。しかもちゃんづけ。

「頭はええで。こいつ。アホやけど」

「いやお兄さん、頭がええのにアホやて、ヘンやわ」

「頭が良うてもアホな奴はおるわ」

「…ア、アホじゃないです…。僕…」

「褒め言葉やがな。そうむくれるな」

男は遙の肩を抱いたまま、遙の鼻を摘む。

何故か男の機嫌が良いようだった。

男はそのまま顔を寄せて来て、遙の唇を吸おうとする。

必死になって除けた。

安と、女の見ている前で平気でこんなことをするのが、信じられない。

それともわざとなのか。

わざと他人の、しかも男同士のキスを見せようとしたのか。だとしたら悪趣味としか言いようがない。

男は遙が拒否すると、それでもそれ以上強要することなく前を向いた。

*

 

高架下の渋滞はさほどなく、すぐに東寺についた。

安は南門の前で遙と男を降ろし、女を乗せて駐車場へ行く。

南門に着く前から、五重塔が見えていた。

周囲にはビルが立ち並んでいるが、塔は平然と、他を圧するように堂々と建っている。

「…ああ…、すごい」

「来たことないんか」

横に並んで歩きながら男が短く聞く。

「…修学旅行の時は時間がなくて」

南門を入る前からもう、テントの露店が所狭しと並んでいる。そしてびっくりするような人混み。京都のどこに、これだけの人がいたのだろう。

「出身はどこや。東京か」

「…静岡です。…焼津という」

「なんや、田舎か」

男が軽蔑しきったように言った。

遙は、思わずむっとした。

「…京都の人って、出身地を言うと、どこでも必ず田舎だと言って軽蔑しますね…」

男は人混みに押された遙の腕を取り、肩を抱く。

「当たり前や。京都は1200年の都やぞ。京都に比べたらどこかて田舎や」

遙は思わず笑いをこらえた。

男のことを笑いたくなったのは始めてだ。

彼も京都の人間なのかと思った。こんな男でも、京都のことを都だと口にすることが可笑しい。

「笑うな。目上の人に失礼やぞ」

「わ、笑ってません」

「おまえはすぐに顔に出るのや」

南門をくぐると、そこも露店だらけで、雑多な骨董や古着や、食べ物を売っている。

「安田さんとまゆさんは」

「安でええ。そのうち来よるやろ」

仏像のミニチュアのようなものを売っているテントに思わず目が行く。

男が遙の肩を抱いて強引に引き戻す。

「いちいち引っ掛かってたら先進まへんぞ」

男は人混みの中でも平気で遙の肩を抱いていた。

遙は男に比べれば華奢に映るだろうが、それでも普通の恰好をした普通の男にしか見えないはずだ。

それでも、男は平気のようだった。

遙にはそれは恥ずかしいことだ。男の気持ちは分からなかった。

兄弟には見えないだろう。

男の偉そうな歩き方や物腰はどうしてもカタギとは思えない。

そんな男に肩を抱かれて歩いている自分は、他人にどのように映っているのだろう。

肩にかかっている男の指を外そうとするが、その手を指に掴まれ、断念した。

 

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