紺青の海2
05/8/27
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中京区の丸太町あたりのコンビニで、アルバイトをすることにした。
下宿先のマンションに近かったからだ。
始めからコンビニか、或いはファーストフード店などのバイトにしておくべきだった、と遙は思っていた。
大学へ入学してから2ヶ月とちょっと、あたふたと過ごしているうちに日が過ぎたが、少し落ち着いたら、いずれにしてもバイトをするつもりだった。
一回生のうちは授業が沢山あるので、それほど時間を割けない。だから、短時間で実入りの良いバイトを、と思ったのが、そもそも間違いだったのだろう。
コンビニは24時間営業で、週3回入るが、それが今の遙には精一杯だ。
1日は深夜から朝まで、他の日は午後から夜か、夕方から夜までということにしてもらった。
日曜日は、休むことにした。
1日、何となくぼうっとしている日が欲しかったのだ。
今日は大学の授業の加減で3時に店に入った。
「久しぶりやな」
遙が、棚に商品を入れている時に、不意に耳元に大きな声がした。
声に聞き覚えがあった。
いやな感じで唾が、咽喉元を通っていった。
振り返ってみると、遙にとって、忘れられない忌わしい、そして二度と思い出したくないと思っていたその顔がまさにそこにあった。
「偶然やな、こんなとこでバイトしてたんか」
「……」
声が出なかった。
ただ顔が引き攣るのが分かった。
「覚えててくれたみたいやな。光栄や」
男は、詐欺まがいのアルバイトを遙に押しつけようとした、得体の知れない男だった。おそらく、まともな仕事はしていないだろう。
黒の上下を着ているのも、いかにも曰くありげに見えた。
「…何かお探しですか」
向こうにいる店長の手前、何食わぬ顔で、手を動かし続けるしかなかった。
「安もおるぞ。この前は悪かったな」
「莵道くん、何か?」
ズボンのポケットに手を入れて、後のガラスケースに凭れかかっている態度の悪い男を見て、店長が助け船を出した。
「い、いえ、何も」
「こいつをくれや。1ダース」
男はガラスケースの中のスポーツドリンクを指し、遙は慌てて1ダース用意した。
レジを終え、「またな」と言って、男は出て行った。
「 莵道くん、大丈夫か。顔色悪いけど」
「だ、大丈夫です」
男が出て行ってからも、気もそぞろだった。
あれからほぼ2週間。
2度と会わないと思っていた。思い込んでいた。
男のいたマンションの事務所はすぐに閉鎖され、誰にも告発されることなく、遙の身体に起ったことは、彼以外誰一人知ることなく日々は何事もなく過ぎて行った。
誰にも言うつもりはなかった。
それは、弱みを握られたから、でもなかった。
恥ずかしい写真を撮られたはずだった。
けれどもそのことよりも、自分が同性の劣情をそそる存在なのかもしれない、ということの方がはるかに恐ろしく恥ずかしいことだった。
「もし、何やったら、もう帰ってもええよ。今日はワシ一人でもいけるから」
「あ、本当に大丈夫です。…すみません。ちゃんとやりますから」
男は偶然のように言って店に入って来たが、多分偶然ではないだろう。
あれ一度では終らなかったのだ。
あの男は、遙に目をつけ、遙を選んだ。
遙は、彼に捕えられてしまったのだ。
自分はどうなるのだろう。
絶望が襲った。
「…あの変なのに付き纏われてるのとちがうか?様子がおかしいよ」
店長が心配して声をかけてくれた。
いっそ、何もかも言ってしまおうか。
恥を偲んで、打ち明けようか。
「いえ、…何でもないです」
「そうか?…もし何かあったらワシに何でも言いや。相談に乗るよ。警察に言うたらええんやから」
「ありがとうございます」
店長もあの男と同じように自分のことをワシと言う。それだけで、遙は動揺する。
その親切に、何かあるのではないかと思ってしまう。
…
最低だな、と思う。
心が乱れて、顔色に出てしまうまで、彼は少しも回復していなかった。
それでも、夜8時までコンビニにいて、何とか定時まで仕事をした。
下宿先は近いので、自転車で来ていた。
大学へ行くのも自転車に乗る。
この町では、自転車が一番便利だった。
裏の駐車場に行くと、男がいた。
手をポケットに入れて、駐車場の壁に凭れていた。
「えらいな、夜までバイトか」
足が震えた。
自転車までの数歩が、出ない。
間抜けなことに、このような事態を予期していなかった。考えればあり得ることだったのに。
「…何の用ですか」
蚊の鳴くような声で、それだけ言った。
「お詫びや。この間の侘びにな、飯でも奢ろうかと思てな。偶然お前を見つけて、ちょうど良かった。悪かったと思てたんや」
「お詫びなんか、していらないです」
男の横をすり抜けようとしたら、腕を掴まれ、そのまま肩をホールドされた。
「そう言わんと。な。せっかく再会出来たんや。奢らしてくれや。ワシの顔立てて」
男は強い力で抱いた遙の肩により力を込めて、遙を逃がそうとしない。
否応無しにそばの車に引き擦り込もうとした。
運転席に安がいた。
「いやです、離して下さい」
「アホか、そんな抵抗したらワシが無理矢理拉致してるみたいに見えるやろが」
男の一喝で、遙は自分の立場を悟った。
そうだ。
自分は逃れられない。
男に目をつけられてしまったのだ。
猛獣が獲物をマークしておくように、遙をマークしておいたのだ。
そうして泳がし、ゆっくりと食べ、味わうために。