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「皇子が消えた後の私の人生は暗かった。酷かったとまでは言わないが。裏に隠しているものが尊敬であれ侮蔑であれ、皆同じ丁寧さで私に接していた。あれは裏に何かを隠している態度だ。嘘をついているものの丁寧さは皆一様だった。あまりに態度が同じなので、誰が誰だかわからないくらいだったし、実質誰が誰であろうと何も変わらなかった。そんな中、お前だけの態度が真実だった。心で賛同するなら態度でも賛同してくれた。心が拒否するのなら態度でも拒否した。…身分と金に曇らされないお前の態度だけ、いつも嘘がなかった。痛いほど潔癖だった。お前との話はいつも楽しかった。だから、私たちの関係がどうなろうともそのままのローズでいてくれることを願って今問いかける。何かないのか」 「捨てられた、と思った」 長い長い親愛の言葉に励まされ、アールヴはネレイドの目を見てはっきりと言い切った。ネレイドはその輝く青い目で今度こそアールヴの目を見たが、アールヴは目をそらさない。心臓が肉の下で鼓動を早める。 「それから、もう必要ないのか、と」 言いながら、アールヴはその通りだと感じていた。皇子が戻ってきた今後は、皇子の権限と「皇子の所有物である」という立場が、いわば王家の権威がネレイドを守る。アールヴが一人肉体を犠牲にしてネレイドを守るよりずっと強力な守護だ。ならばアールヴは必要ない。今自分は「レイジナルド家の息女の一人」に戻るべきなのだ。 王錫とその器の契約は、普通ならもっと早くに切れる。王錫の主たる皇子(あるいは皇女)が確たる権威を持つまで王錫を守る…それだけの契約に過ぎないからだ。だが、ネレイドの主であるナイアは失踪した。ネレイドは守ってくれる権威を持たず、アールヴを所有し続けて己を守った。 「自分が私の守護に役に立ったと思っているのか?」 思いに沈むアールヴにネレイドは冷笑を浴びせた。妖艶な顔が冷酷に笑うとなかなか恐いものがあるのだが、アールヴは慣れている。また、これは本気で冷笑しているわけではないと見抜くこともできる。 「何だ、もっと早くに捨てたかったか?」 アールヴも鼻で笑って返した。ネレイドに迫るいくつもの危機を、アールヴはその身で弾いてきた。それを知らないネレイドではない。ネレイドは息を吐き、羊皮紙を丸めてアールヴに放る。それから、デスクを立ってアールヴのすぐ側に立った。思わず距離を開けるアールヴに、また同じだけ近づく。 「お前を長く捨てなかったのはな、…こう言いたかったからだ。ローズ・アールヴ。貴女をフラムスティード家にお迎えする」 「結婚しろって!?」 「そうだ」 「これにも自由に私が意見を言う無礼が許されるのか?」 「そうだな」 アールヴは後ろ歩きで壁際にまで下がった。壁に背中をつけ、ネレイドを上目遣いに睨む。ネレイドはその場に立ったまま、かるく首を傾げた。 「何か?」 「契約破棄の意味が本気で解らない」 「なぜ」 「命じれば私は逆らわなかった。というか逆らえなかった」 「それが嫌だった。私はお前が自分の意思で私を選び、自ら私の手を取って欲しいと思っている。嫌なら嫌と言う余地を残したかった。…それでも、最初にそれを問い掛けるのは私でありたかった。だからお前がこんな歳になるまで所有していた。…そして今、既に私以外の誰もお前を見なくなってから、初めて安心してお前を廃棄する。ここには私たち以外誰もいない。貴族の男の正式な求婚を女から断れば断罪されるが、私は公式に申し込んでいるわけではない…お前が嫌なら、正式な求婚はしない」 「…ならば、断る」 ネレイドの言葉が終わるや否や、ほぼ即答でアールヴは拒否の意を示す。ネレイドは意外だったようで、少し驚いたような顔をした。アールヴは顔を顰める。 (私が喜ぶとでも思ったのか。私の想いはそんなに浅くはないんだ) 「自分の顔と私を並べてみろ、つり合うとでも思っているのか」 「陰口でも気にしているのか?」 「そうじゃない…男をも魅了する貴様と並ぶに相応しいのは、女をも魅了する絶世の美女だけだ。私は、必ず国中の誰もが虜になるはずのその夫婦を、焦茶の軍服と金の腕章をつけて影から守りたいと思っていた。どんな女性でも貴様を愛した。私も愛している。その全員を諦めさせるような美しい女性の手を、愛しい私の主が取る…それが私の夢だ、ネレイド」 言いながら壁を離れ、ネレイドを睨んだまま彼の元へとまっすぐに歩いていき、すれ違って僅かに進んだところで振り返る。ネレイドはアールヴを見ていた。僅かに不快が見てとれる。互いに不機嫌な表情のまま二人は睨み合った。 「勝手だな」 ぼそりとネレイドが呟いた。底冷えするような響きをもった声だったが、アールヴは恐怖を感じなかった。 「王錫は王の権威の象徴だ。であれば、貴様こそ勝手だ。貴様が妻に迎えるべきは、誰もが王錫の妻として認める美女だ。それ以外許されない。いや、私が私に許された無礼の全てをもって許さない!」 「何を期待している? 決闘でも望んでいるのか? 私がお前からお前を勝ち取る為の…それが実現したらしたで、貴様は死をもって敗北を認めると言い出すのだろう」 ネレイドの目がちらとデスクの脇に置いたままの剣に走る。それから、その視線そのものを刃物と成し、青い目がアールヴの目に切り込んできた。 この眼。この煌めく青い目。笑おうと怒ろうと全てが妖しく暗く美しい。アールヴはその澄んだ青に魅入られたまま言葉を止めた。 「捻くれ者の薔薇」 ネレイドはゆっくりと低い声で囁きながらアールヴに近寄り、その肩に一本ずつ指を掛けて握る。 「小心者の騎士」 アールヴは目を閉じた。肩から上にかるく布が触れるような感触がして、耳のすぐ側でネレイドの囁きが再開される。 「長く私に恋していたな、臆病な妖精」 戻る |